小説
『そなたがこの手紙を見るとき、すでに、わたしの死とわたしが残した言葉が、風のようにそなたの耳にも入っていることだろう。 レインハルトよ、私の死も、私の言葉も真実である。 神は、私たちにいつも優しい眼差しを向けられ、温かい手を差し伸べてこられ…
一人で荒野を歩いていた。 自分以外誰もいない荒野。 いつも夢に見る孤独な世界。 また、誰かの泣き声が聞こえていた。 どこか遠くから聞こえてくるようでもあり、すぐ近くで泣いているようでもあった。 ひどく体が重かった。 足は鉛のように重く、一歩動か…
ジュダはレインハルトが部屋を出ていくと、にやりと笑った。その顔は神の名を口にして祈りを捧げたさきほどまでの真摯な顔とはまるで違っていた。その表情には邪悪で傲慢な笑みが宿っていた。ジュダは机にあった呼び鈴を鳴らした。すると数秒もせぬうちに執…
この時代、敵の侵攻に備えるために国境都市は堅固な城壁に囲まれており、城の中央にその都市の最も重要な施設が集まっているのが普通で、マナハイムも同様の造りとなっていた。レインハルトは教会の尖塔が見える街の中央に向かって歩いていた。すると、そち…
レインハルトはリュウが運び込まれた医者の家にいた。リュウはベッドの上に寝かされていたが、切り裂かれた腹は既に糸できちんと縫合されていた。リュウの傍にはリオラがいて、リュウの手を握り必死に祈っていた。 「どうだ。この男、助かるであろうか?」 …
「やめろ!」 静まり返っていた広場に、堂々たる声が響いた。その声は戦場で万の兵を叱咤する将軍の命のように、その場にいた全てのものの腹に響き渡った。さしもの署長の耳にもその声は届いたと見えて、顔をあげてきょろきょろと声の主を探した。すると一人…
同じように怒り狂っている男がいた。せっかく楽しみにしていた余興を台無しにされ、民衆の前で豚呼ばわりされた署長だった。署長はぷるぷると震えながら、物凄い形相でリュウの前に近づいてきた。 「――神など、どうだっていんだよ! てめえは俺に這いつくば…
冷たい風が吹いていた。暗い雲が空全体を覆っていて、とにかく昏かった。草木一本はえていない荒涼たる大地が見果たす限り続いていた。空腹だった。なんでもいい、食べるものが欲しかった。それに寒かった。凍えるように寒かった。自分がなぜこんなところを…
リュウはマナハイムを飛び出した夜からいっときも休むこともなく、ひたすら道を急いでいた。どこに行くあてもなかったがマナハイムの近くに留まっているのは危険であることは分かり切っていた。 騒がしい表街道は避けて裏道を歩いていたが、それでも至る所に…
「レインハルト! 紅茶が冷めちゃうよ!」 台所の方からリオラの声が聞こえたが、レインハルトは返事をするのを忘れるほど目の前の手紙に目を奪われていた。レインハルトが読んでいるのは預言者エトからの手紙であった。エトが世を去ったことはもちろん知っ…
首都ウルクの外れにある森の中の質素な一軒家に多くの人が詰めかけていた。 国王の側近、大司教、騎士団の総長、他にも商人組合の長や石職人の代表ら、各界の主だった顔が大勢集まっていた。重責を担い、国を支えるものたちが、かくも多くこんな辺鄙な場所に…
リュウは丘の上に立つとマナハイムの街を振り返った。月明かりに照らされて教会の尖塔が見えた。その隣にはリュウがいた孤児院があった。思い出とよべるようなものはなかったが、それでも何年かの時を過ごした場所には違いなかった。 リュウには家族がいなか…
リュウが住む孤児院は国教会が運営している身寄りのない子どもや乳飲み子を抱えた寡婦を住まわせる施設であった。そう言えば聞こえはいいが、住んでるものにとってみればなんのことはない、浮浪者のたまり場のごとき施設で、個室などあるわけもなく、大きな…
リュウが住むマナハイムの街は人口三万人程度だが、国境近くにあるため隣国と交易するものたちの往来が盛んで街は大いに栄えていた。旅人が多いこうした交易都市で酒場や娼館が賑わうのは歴史の常であるのかもしれない。アルコール臭が混じったごみ溜めのよ…
白い雲が流れていた。 リュウは屋上に突き出した階段室の上で寝そべりながら、流れる雲をぼんやりとながめていた。くだらない授業など受けるつもりはなかった。かと言って、子どもたちが泣きわめく孤児院に戻るつもりもなかった。とにかく早くこの狭苦しい街…
この物語を始めるにあたって、どこから語り始めればいいのか思い悩む。始まりを探そうと思えば切りがない。もしかすると、歴史を全て語らねばならないことにもなりかねない。それではあまりにも冗長になるだろうし、読者の興趣をそぐことにもなるだろう。 だ…
密教世界をテーマにした和風ファンタジー。仏のみが持つとされる十の力を解き明かしながら、様々な試練に立ち向かう三蔵と楓。救うとは、救われるとは何かを解き明かしていく。
楓は銃声が響いた瞬間、これで自分も死ぬんだと感じ、そのまま意識を失っていた。いったい、どのくらい経ったのか判然としなかったが、胸の下で何かが動いているのを感じて、ふと目が覚めた。それは三蔵の心臓の鼓動だった。その鼓動は三蔵の体を通じて楓の…
「ばかが! 誰が修法比べなどに付き合うなんて言ったよ」鬼島はうすら笑いを浮かべて、三蔵に近づいた。そして血を流して倒れている三蔵を容赦なく蹴りつけ始めた。 「なにが、救いはないだ! なにが、未来永劫、苦しむだ!」 「えらそうに説教たれた癖に、…
楓の目の前には、さきほどまで笑いあっていた大吾が眠ったように地面に横たわっていた。心臓のあたりから血がどくどくと噴き出て周囲に広がっていた。 楓は自分が何を見ているのか理解できなかった。ただ父のそばにいきたい、それだけが頭にあり、ふらふらと…
「三蔵! 三蔵!」楓が大声で叫びながら、三蔵のいる広間に走ってきた。 「そんなに慌てるな、一体なんの用事だ」三蔵が落ち着けとばかりに言った。 「なんだか、この近くに指名手配されている殺人犯がうろついているみたいなの! 今朝、警察から家に電話が…
スサノオは古びた神社の前に立って、まるで社の内部を見透かすかのように厳しい目でじっと見つめていた。その神社はもはや人から捨てられたと見えて、草は伸び放題、柱は腐食して斜めに傾き、壁にはところどころ穴があいていた。 「――どんどん、力が弱まって…
「ほら、三蔵の好きな鰹だよ。今日、魚屋さんに行ったら、すごくいきのいいのがあったから、奮発して買ってきちゃった」楓はそう言うと、脂が乗った鰹の刺身がたっぷり盛られた大皿を三蔵の前に置いた。 「おい、親父さんの分も残しておかなくていいのか」三…
冷たい風が吹いていた。麓はまだ紅葉が色づいていたが、山の上では木々はすっかり葉を落とし冬支度を始めていた。そんな枯れ木が生い茂る最奥の森の中を一人の男が歩いていた。この男は東京で幼女を誘拐して凌辱した後、バラバラに切断して親元に送るという…
「今の地震じゃない?」学校からの帰り道、優香が言った。 「結構、大きくない……」楓は優香の手を掴んで、不安そうに周りを眺めた。 「楓、怖がりすぎだって」優香が笑いながら言った。 「だって、このところずっとだよ。ほら、ここら辺って、十年おきに大き…
面白い小説を書くことだけしか考えていないアマチュア作家の徒然ブログです。
相変わらずボロ家同然の青龍寺であったが、先日行われた晋山式の前にだいぶ庭の手入れや傷んだ箇所の修繕をしたので、なんとか人が住めるような環境になっていた。 スサノオがいるはずだったが今日はどこかに行ったと見えて姿が見えなかった。まあ、あんなで…
「ねえ楓、今度清龍寺に来た住職さんって、すごいイケメンなんでしょう」 びっくりして顔をあげると机の前に同級生の優香が目を輝かせて立っていた。 「えっ……なんでそんなこと知ってるの?」楓が少しうろたえ気味に答えると、優香がさらに身を乗り出してき…
翌日、楓は学校から帰ると荷物を放り投げ、すぐに清龍寺に走っていった。三蔵はどこやらへ出かけたらしく不在だったが、あの巨大なスサノオと名乗る白い犬が庭の隅で昼寝をしていた。楓は恐る恐るスサノオの方に近づいていった。 「……スサノオさん」楓は蚊の…
光は消え去り、周囲は暗闇の世界に戻っていた。いつの間には大熊は消え失せ、三蔵が右腕を抱え込むようにしてしゃがみこんでいた。楓は三蔵めがけて走っていった。 「大丈夫! 怪我はない?」 三蔵の脇に駆け寄った楓は心配そうに声を掛けたが、三蔵の右腕を…