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【泣ける感動小説】『42.195㎞』(五)

 翌日、いよいよ大会を明日に控え、最後のランニングのために家を出た。体をほぐしながら、いつものスタート地点に立ち、時計をセットして一気に走り出した。
 本番と同じ長さの42.195キロのコースは幾度も走っていたので、今日は体をほぐすことを目的に、敢えて軽めの10キロのコースを走り始めた。

 だが、高ぶった体は体をどんどん前に押しやり、気づけば全力で走っていた。いつか見たあのランナーのように、ただ目の前だけを見つめて走った。目の前の先にある何かを追い求めるようにがむしゃらに走っていた。

 ゴールに辿り着くと真っ先に時計を見た。時計の中の数字は35分38秒、これまでの自己ベストを叩き出していた。心臓がマシンガンのように鳴っていたが、俺は、まだ余裕があるように感じた。まだいける、明日はもっと、早く走れる、俺はそう思った。

 

 家に戻ってシャワーを浴びると、出がけにお袋から声がかかった。
「ご飯できたよ、着替えたら、下においで」
 俺はああと一言だけいうと二階に上がり、ジャージに着替えて、下に降りた。
 台所に入ると、なんとも豪勢な食事がテーブルいっぱいに並べられていた。
「なんだよ、こんなに」
 俺はびっくりしてご飯をよそおっているお袋に言った。
「だって、明日はいよいよ本番でしょう。精の付くものいっぱい食べなきゃ」
「それにしたって、こんなに食べられねえよ」
「いいの、いいの、お祝いなんだから」お袋は笑いながらそう言って、俺にご飯を手渡した。
「お祝いするんなら、明日だろうが」
「そうだね! じゃ、明日も精一杯おいしいもの作るね」
 お袋はそう言うと、うれしそうに俺の向かいに腰かけている親父に笑いかけた。
 親父は脳梗塞であたってから、言葉がうまくしゃべれなくなり、ほとんどしゃべることはなくなっていたが、その柔和な眼差しは依然と変わらず、軽く頷きながら、お袋に優しく微笑んだ。
 親父は俺の方も見て、何か言いたそうだったが、やはり言葉がうまく出ないのか、にこりと笑って、一つ頷いた。
 お袋は席につくと、俺と親父を見て、明るい声で言った。
「それじゃ、明日頑張ってね。お父さんとここで応援しているからね」
「いいよいいよ、そんなに気をつかわなくても。ただ、走ってくるだけだから」
「でも、なんかうれしいな。あなたがこんなに夢中になっている姿を見るのは、久しぶりだから」
「なんだよ、それ。まるで、俺が真面目に仕事してないみたいじゃないか。こう見えても、結構、評価されてるんだぞ」
「ごめん、ごめん、そういう意味じゃなくて、なんていうかな……あなたのそんな生き生きした姿を見るのが久しぶりで」
 そう言うと、お袋は目元を軽く抑えた。
「何、泣いてんだよ。まったく、年取って涙もろくなってんじゃねえか」
 俺は軽口でそう言ったが、お袋にまでそんな風に思われてたのかと思うと、自分が情けなかった。
 すると、親父がお袋の肩を叩いて、たどたどしい声で言った。
「だいじょうぶだ」
 親父はそれだけ言うと、お袋ににっこり笑いかけた。

 だいじょうぶだ、その言葉が耳に残った。
 何がだいじょうぶなんだろう。
 俺が走り切れるという意味なのだろうか。社会人として認めているということなんだろうか。
 分からなかった。だけど、少し涙ぐんだお袋の顔をみつめ、うんうんと頷いている親父の姿を見ると、それ以上、言葉をかけることができなかった。

 

 部屋に戻ってベッドに身を横たえたが、明日のことを考えると、なんだか無性に興奮してきた。他の選手をどんどん抜き去り、トップ集団に食らいつき、颯爽とゴールを駆け抜けるシーンが頭の中を駆け巡っていた。俺は、しばらくは寝付くことができなかった。

 

豪華な食卓

 

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