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【泣ける感動小説】『42.195㎞』(九)

 スタートしてから、1時間15分が経過していた。
 空は快晴で雲一つなかった。その中を太陽がじわじわと昇っていた。太陽は容赦なく、地上を照りつけていた。あたりに漂っていた夜露がどんどん蒸発し、温度がどんどん高くなっているのが皮膚の感覚で分かった。
 汗が吹き出し始めていた。
 その汗はスタート前の爽快な汗とはまるで違って、べとべとと肌にまとわりついていた。

 18キロの地点に給水コーナーがあった。
 俺は走りながら、水を含んだスポンジを掴むと、そのまま顔や首に押し当てた。スポンジに含まれた水がだらだらとシャツの中にこぼれ落ちた。スポンジだけでなくスポーツドリンクも掴んで浴びるように口に流し込んだが、喉に入ったのは半分ほどで、残りは喉からそのまま胸元へしたたり落ちていった。
 俺のTシャツはべちょべちょになったが、そんなことはどうでもよかった。
 とにかく体が暑かった。ちょっとでいい、体を冷やしたかった。だが、水と汗とでべちょべちょになったTシャツは体にべったりと張り付いて、俺をさらに不快にさせた。
 でも、俺はなんとか走っていた。苦しみながらも、なんとか走っていた。ペースは既にキロ4分半にまで落ちていたが、それでもなんとか走っていた。

 異変を感じたのは二十キロの看板を過ぎたときだった。地面を蹴るたびに、電流が流れるようなピリピリとした感覚が断続的に足を襲うようになった。それとともに、地面を蹴る力が弱くなっていた。
 俺は必死にペースを保とうとした。だが、思いとは裏腹に体が言うことを聞かなくなっていた。ペースは一気に落ち始めた。
 俺を追い越していくランナーがどんどん増えてきた。序盤、俺が抜いていった連中が、今度は俺をあっさり追い抜いていった。みんな、俺のことなんか見向きもしなかった。
 なんとか踏ん張りたかった。なんとかこいつらと並んで走っていきたかった。だけど、もはや俺にはその力は残っていなかった。
 22キロ、23キロ、24キロ、走行距離を示す看板をみる時間の感覚がどんどん長くなっていった。急激にペースが落ちていくのが自分でも分かったが、どうにもならなかった。逆に、足を襲うピリピリとした痛みは、どんどん強くなっていた。俺は、いつか時計を見る余裕すらなくなっていた。

 呼吸が苦しかった。
 はあ、はあ、はあ、喘ぐようにして走っていた。
 いつの間にか、太陽は頭上近くまで昇っていた。強い日差しが真上から降り注いでいた。スタート前、気温は15度とアナウンスで言っていたが、明らかに、現在は25度近くまで上昇している気がした。アスファルトからの照り付けも厳しく、汗が滝のように体から流れていた。Tシャツどころかパンツも既にべちょべちょだった。
 足の異変もどんどん深刻になっていた。地面を蹴るたびに、筋肉がよじれるような痛みがあった。一蹴りごとに筋肉の繊維がぶちぶちと断ち切れるような感覚に襲われた。
腿も重かった。まるで鉛を腿に巻き付けられているようだった。スタート直後、スキップするように勝手に腿が持ち上がり、飛ぶように跳ねていたのが嘘のようだった。
 腕を振ることも辛かった。腕を振るだけで、上腕と肩の筋肉が引き攣った。
 全身の筋肉が悲鳴をあげていた。いや、筋肉だけじゃない、骨格、内臓、俺の中の全ての細胞が悲鳴をあげていた。いつの間にか俺は歩いているのと大差なくなっていた。
 でも、俺は一応、走っていた。何が歩きで、何が走ってるかなんて、一度走った奴だったら誰だってわかる。俺は一応、そこまでは走っていた。

 

 25キロを超えたあたりだった。傾斜のある坂道に差し掛かった。目の前の坂はずっと登りが続いていて、はるか先の方でカーブして林の中に消えていた。
 俺は目の前に迫ってくる壁のような坂を見た瞬間、誰かがしゃべるのを聞いた。

 こんな足で、こんな坂、昇り切れるわけねえだろ
 無理に決まってる
 ゴールはまだずっと先なんだぞ
 こんなとこで力使い果たしたらどうすんだよ
 いいじゃねえか、歩いちゃえよ
 ちょっとだけ、ここだけだって

 それは自分の声だった。
 俺は下を向いてぶつぶつとしゃべりながら走っていた。
 俺はもう一度、前を見た。きつい坂が眼前に迫り、あと少しで昇り勾配が始まろうとしていた。

 おい、やめとけって
 足が肉離れ寸前じゃねえか。こんな坂走って昇ったら一発だ
 足抱えて蹲っちまうぞ、そんなのみっともねえだろうが
 だから、この坂だけだって
 この坂昇り切ったら、また走ればいいじゃねえか
 ほら、前の方、見てみろ。歩いている奴もいるじゃねえか
 な、卑怯でもなんでもないって

 俺はまたぶつぶつとつぶやいていた。そして、ついに昇りに入ったのを体が感じた。
 その時だった。俺の中で何かが切れたのを感じた。その瞬間、前にかかっていた重心が後ろに移っていた。
 俺は歩き始めていた。

 俺は下を向きながら、とぼとぼと歩いていた。足の痛みはあったが、歩くのは走るのとは比較にならないくらい楽だった。
 道路の両脇には高い木が生い茂っていて、日の光も遮られ、涼しげな空気が流れていた。呼吸の方もだいぶ落ち着き、気持ち的にも余裕が戻ってきていた。
 一歩一歩昇っていくとカーブが近づいてきた。この先もあるのかと思うとうんざりしたが、カーブを曲がり始めると、なんとすぐ先が頂上で、あとはずっと下り坂になっているのが見えた。
 俺は心底ほっとした。
 やっと登り切った。これで難所は切り抜けた。後は下り、楽にいける。そう思った。本当にそう思ったんだ。
 ……だけど、俺は頂上を過ぎても走ろうとしなかった。
 俺は下りも歩いていた。

 平地になっても、ずっと歩いていた。俺の横を何人もの選手が抜いていった。腹の出た中年のランナーが汗だくになり死にそうな声をあげながら俺を追い越していった。干からびた骨と皮ばかりの老人ランナーが、どこにそんな体力が残っているのか信じられないような力強さで俺を抜き去っていった。ヒーロー姿のコスチュームを纏った仮装ランナーが、このくそ暑さなど屁とも思ってないように、沿道に手を振りながら元気に走り抜けていった。
 最初は悔しかった。俺を抜いたやつらの遠ざかっていく背中を、ひいひい言いながらただ見ていることしかできない自分が情けなかった。
 でも今は違う感情が心の中に湧いていた。

 こいつらは、そもそもマラソンのことしか考えてないんだ
 今日が初めての俺なんかと違って、練習量だって格段に違う。そういうやつらに負けたってしょうがねえじゃねえか
 たかが市民マラソンだろ、こんなマラソンの勝ち負けなんて何の意味もない

 俺はしきりと誰かに向かってしゃべっていた。そうして、俺は抜かれることをなんとも思わなくなっていった。

 

急な上り坂

 

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