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【仏教をテーマにした和風ファンタジー小説】『鎮魂の唄』 第六話 人を殺す獣

 目の前を巨大な犬がのっそりのっそり歩いていた。鬱蒼と生い茂る森は薄暗くて何も見えなかったが、あちらこちらにぼんやりと白い魂が浮いたり消えたりしていた。

 楓は三蔵と横並びに歩いていたが、楓の手は、三蔵にしっかりと握られていた。少し手が痛かったがうれしかった。なんの根拠もないのは分かってはいたが、楓はこの三蔵という男がいざとなったら絶対に自分を守ってくれるだろうと確信していた。なぜだか、体のどこかからかそんな思いが湧き上がってくるのだった。なぜだろう、なぜなんだろう。自分でも不思議だった。でも今はそれで十分だった。

 森の中を三十分も歩いたろうか。さらさらと水の流れる音が聞こえてきた。どうやらどこかの沢にたどり着いたようだった。楓は周囲を探った。目の前には小さな沢があった。そして沢に覆いかぶさるように大きな岩が見えた。猿の横顔に似た岩だった。見覚えがある場所だった。そこはまさに昼間、大吾たちが言っていた場所であった。白骨死体が見つかった深沢の猿岩だった。

 白い犬が歩みを止めた。何かの臭いを嗅いでいるように見えた。楓は三蔵の耳元に口を近づけると、ここが例の死体が発見された場所であることを伝えた。三蔵はそうかと軽く頷くと犬に話し掛けた。

「おい、ここで今朝、死体が発見されたらしいが、それはお前の仕業か」

 巨大な白い犬はこちらを振り返ると、黒く大きな眼を鋭く光らせた。

「どうなんだ、お前が殺したのか」三蔵が再び問うた。

「――違う」

「お前ではないのか」

「そうだ」

「では、いったい、誰の仕業だというのだ」

 犬はその問いには答えず、そのかわり頭を上げていきなり雄叫びをあげた。

 うおおおおおおおおおおおおおおおおおん

 その声は木々を揺らし、川面を波立たせ、草々を震わせた。深い森の中の隅々にまでその声は響き渡った。三蔵と楓は寄り添うように身を寄せながら、用心深くあたりを見回した。 犬は頭を下げると、何かを待つかのように黙ってその場に佇んだ。

 音がした。草を掻き分ける音。木々を押し倒す音。地面を踏みしめる音。沢の向こう岸の薄暗い木々の中から音が聞こえてきた。巨大なものが動く音だった。
 闇の中を何か異様なものが近づいていた。三蔵と楓は闇の中に目をこらした。ふと闇の中に何か黒いものが見えた。闇の中に黒いものが見えたとは妙な喩えだが、とにかくもやもやとした黒いものが闇の中で膨らんだり縮んだりしているのが見えた。
 徐々にその形がはっきりしてきた。黒い体毛、黄色く光る眼、真っ赤な口。それは五メートルはあろうかという見上げるほどに大きな熊であった。その熊はしゅうしゅうと息をしながら沢を超え、ゆっくりと三蔵と楓の前に近づいてきた。楓は思わず後ずさりしそうになったが、手をしっかり握ってくれる三蔵のおかげでなんとかそこに踏みとどまった。三蔵はじっと熊を見つめていたが、その鋭い目はまるで熊の体内までも見透かそうとしているかのようであった。熊はそんな二人にあと十歩というところまで来てようやく止まった。

 

巨大な熊

 

「――この場にあった死体はこいつの仕業だ。お前はさきほど俺たちを救うと言ったが、このものは人間を殺したのだぞ。さあどうする、そういうものをいったいお前はどう救うというのだ」白い犬が厳しい声音で言った。

 三蔵は楓に向かって小さく言った。

「手を放すが心配するな。大丈夫だ、お前に危害を加えさせたりはしない。だが少々嫌な光景をみることになるかもしれんが、少しの間我慢してくれ。とにかくどんなことがあっても俺を信じて、決して動くなよ」三蔵はそう言うと楓に向かって軽く微笑み、固く握っていた手を離した。三蔵は熊に向き直ると、諭すように話し始めた。

「お前の正体は分かった。お前がどうして人間を食い殺したのかもよく分かった。お前たちの悔しい思いもよく分かった。だがこれ以上、人間を殺してもお前たちは救われない。因果の中に囚われていては苦しみがやむことはない。よく分かっているはずだ。恨みを捨てねば安らかに眠ることはできないことを。妄執を捨てねばこの六道世界の中から脱することはできないことを。どうだ恨みを捨てて心静かに眠るつもりはないか。人を許し、弥陀の救いにすがろうとする気はないか」

 熊は三蔵の話を聞いてはいたが、相も変わらずしゅうしゅうと息を吐くのみであった。

「おい坊主、そいつはまだまだ人間を殺したりないらしい。お前の上っ面の説教など糞の役にも立たんようだぞ」白い犬が侮蔑するように言った。

「どうだ、分かってくれぬか」三蔵が巨熊に向かって乞わんばかりに言った。

「むだだ、むだだ」白い犬が嘲笑った。

「――そうか、では人間の代わりに俺の右腕を喰らえ。俺にはまだやらねばならんことがあるので、まだ命はやれんが、右腕一本ならお前たちにくれてやる。それで許してはくれぬか」

 その瞬間、熊と犬の動きがぴたりと止まった。熊は息を止めて黄色い光を放つ目を大きく見開いた。犬は笑いを引っ込めて、じっと三蔵を見据えた。

「……お前の腕をこいつにくれてやるだと」犬が低い声で言った。

「ああ」三蔵は熊を見つめながらそう言った。

「このものの恨みの念を思えば、確かにそのぐらいのものを差し出さねば、このものも納得すまい」

「……本気か」

「ああ、本気だ」そう言うと三蔵は法衣から白い腕を出して熊の方に歩み出した。楓は思わず手を延ばして、法衣の裾を引っ張った。

「やめて。そんなこと、やめて」

 三蔵は楓に向き直ると、まるで教え諭すように優しく穏やかな声音で言った。

「あのものは人間にたいそうな恨みがあるんだよ。その恨みに凝り固まった念を解き放つためには誰かが罪を贖ない、あのものを救い上げてやらねばならないんだよ」

「……だって……あなた密教僧なんでしょう。そんなことしなくても、この前みたいにおまじないか何かで追い払えばいいじゃない!」

「追い払うことはできても、その無念の思いは消えることはない。いつまでもこの世に残り、いつか災いをなす素となる。すべては因縁から生じるのだ。その因果の鎖を絶たねば、あのものは絶対に救われない」

「……でも……でも、あなたがそこまでしなくても」

「これは人間が犯した罪なんだ。だから人間が償わなければならない。そのために俺はこの地に来た」そう語る三蔵の顔は美しく澄んで、微笑みさえ浮かべていた。

「心配してくれてありがとう。大丈夫だ、そんな大したことじゃないさ」

 楓は三蔵の顔を見ているうちになんとも言えない感情が込み上げてきて顔がくしゃくしゃになった。自分は三蔵のためになんにもしてあげられない。三蔵を引き止める言葉すら何一つ出てこない。無力な自分に対して泣きたくなった、不甲斐ない自分に腹がたった。だが今の楓には三蔵を助けるための力を何一つ持ち合わせていなかった。楓は力が抜けたように法衣の裾を離した。三蔵は泣きそうな顔をしている楓を見て、にっこりと笑った。そして熊に向かって歩き出していった。

 その熊は山のように大きな熊だったが、なんだか縮んだり膨らんだりしているようで、いくら楓が目をこらしても輪郭をはっきりと捉えられなかった。ただその黄色く光る目と真っ赤な口だけは恐ろしいほどはっきりと見えていた。しゅうしゅうと息をするたびに血のような舌が垣間みえ、巨大な牙が銀色に光っていた。

 三蔵は一歩一歩近づいて行き、熊の目の前に立った。至近といってもいい距離だった。熊が飛び掛かれば三蔵の頭ごと食いちぎれる距離だった。楓はその様子をじっと見つめていたが、あまりの緊張にもはや瞬きすることさえできなかった。

 熊はその黄色い目でじっと三蔵を見据えていた。
 三蔵はその熊の口の前に右腕を差し出した。その瞬間、熊が三蔵の腕に喰らいついた。ごりごりと音を鳴らして骨ごと噛み砕こうとした。三蔵の腕から血が吹き出し、真っ赤な血がだらだらと滴った。嫌な音が響いた。牙が骨に食い込んだ音だった。楓はもはやその光景を見ていることができなかった。目を閉じて両手で耳をふさいだ。これ以上耐えられなかった。

「もう、やめて!」楓は思わず叫んでいた。

 その時だった。楓の閉じた瞼の裏が急に熱く、明るくなった。何ごとかとかすかに目を開けると、そこは一面光の世界だった。その光は三蔵の腕から発していた。もの凄い光が三蔵の腕から放たれ、辺りを昼間のように明るく金色に照らしていた。あまりのまばゆさに手をかざして、なんとか三蔵の様子を伺おうとした。三蔵の全身を光が包んでいた。そしてその光がまるで炎のようにゆらめいていた。

「――金剛力」

 白い犬がつぶやくのが聞こえたが、楓は陶然とその光景を見つめていた。

 

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