アマチュア作家の面白い小説ブログ

素人作家がどこまで面白い小説を書くことができるか

第七話 金剛力

 光は消え去り、周囲は暗闇の世界に戻っていた。いつの間には大熊は消え失せ、三蔵が右腕を抱え込むようにしてしゃがみこんでいた。楓は三蔵めがけて走っていった。

「大丈夫! 怪我はない?」

 三蔵の脇に駆け寄った楓は心配そうに声を掛けたが、三蔵の右腕を見た途端絶句した。腕は血だらけで肉の間から骨が覗いていた。三蔵は腕を抑えて、必死に痛みに耐えていた。楓はあまりのことに体を強張らせたが、それはほんの一瞬のことだった。すぐさま着ていたブラウスを脱ぎ捨てると歯でそれを切り裂いて血がどくどくと流れ出る三蔵の右腕の上部に巻きつけてきつく縛った。そして残りの生地を沢の水に浸して傷口にそっとあてた。三蔵は痛みに顔をしかめたが楓の方を向くと、

「――手慣れてるな。おかげで助かったよ」と弱々しく笑った。

「前にも熊に噛まれた人の手当てをしてあげたことがあったの。大丈夫、これくらいなら、病院にいってしっかり手当てすれば、ちゃんと治るから」楓は力強く言った。

「――そうか。じゃあ、手を無くさずに済みそうだな」そう言って、三蔵がにこと笑うのを見て、ようやく楓の顔に笑みが戻った。

「あっ、そういえば、あの熊はどうなったの」

「熊か、熊を形作っていたものたちなら、そこら辺に散らばっている」

 三蔵はそう言うと周りを見渡した。楓も追うように目を向けると、いつの間にか二人の周りには数えきれないほどの小動物の死骸が散らばっていた。犬、猫、狸、狐、兎、鼠、烏、蛇、蛙、魚、蜻蛉、飛蝗……とても数えきれなかった。ありとあらゆる動物や昆虫たちが、あるものは群れで、あるものはつがいで、あるものは小さな子どもたちと一緒に死んでいた。

「これは、なんなの……」楓が呆然としたようにつぶやいた。

「このものたちは人間に住処を奪われ、食べ物を奪われ、子どもを奪われ、命を奪われた可哀そうなものたちだ」三蔵が憐れみを込めて言った。

「……人間に」

「そうだ、人間は開発と称して自然を破壊し動物たちの住処を根こそぎ奪う。住処を奪われた動物たちがやむなく人間の世界に入ってくれば害獣として駆除され、あるいは交通事故の犠牲となって命を落とす。そしてまた人間は必要のないものたちまで大量に捕獲し、余ればごみとして平気で投げ捨てている――このものたちは、そうして命を奪われたものたちなのだ。おそらく人間をどうしても許せなかったんだろう。その無念の念が集まり、あの熊の形となって俺たちの前に出てきたのだ」

「そのとおりだ」突然、別な声が聞こえた。それはあの白い犬の声だった。

「このものたちは人間を許すことができずに妖異のものとなり、たまたま近くを通りかかった老人を襲ってしまったのだ――だが、このものたちはこんな身になっても命を奪うことの畏れを捨て去ることができなかった。だからこそ、このものたちは肉の一かけらも余すことなく、喰い漁ったのだ」

 三蔵と楓はそこらに散らばる数限りない生き物たちの骸を眺めた。それは悪鬼でもなんでもなかった、この世に生を受けたものたちが必死に生き抜いた姿であった。三蔵は立ち上がった。楓も三蔵を支えるように立ち上がった。三蔵は片手を前に出して静かに言葉を発し始めた。その言葉は光明により諸罪を除き、死者を西方浄土に往かせる密教の真言であった。

 おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん

 三蔵が唱える言葉をなぞるようにして知らず知らず楓もその言葉を唱えていた。二人の声が混じり合って空に溶けていた。木も草も山も川も、動物たちも虫たちも静かにその唄に聞き入った。そのうちに三蔵と楓を取り囲んでいた動物たちの死骸が光を発し始めた。光り輝く動物たちは、まるで命を取り戻したかのように再び体を動かし始めた。そして妻や夫、そして子供たちを相誘うように天に向かって走り出し、飛び立っていった。三蔵の唱える音色とともに黄金の光となって高く高く天に昇っていった。三蔵と楓は最後の光が天空に消え去るまで、ずっと唄い続けていた。

 

天に昇る光

 

「――見事な仕置きであった」澄んだ夜気の中に言葉が響いた。白い犬が発した言葉だった。

 三蔵が振り向くと、白い犬が再び言葉を掛けてきた。

「お主、金剛力を備えておるな」

「ああ」三蔵が悠然と答えた。

「ならばその力を使い、そこな女が言ったがごとく、あのものどもを滅し去ることもできたはずだ。なぜそれをしなかった。それどころかお前は自分の右腕をくれてやるとさえ言い放った。お前の身に金剛力が備わっていたとしても、妖物に腕を噛ませるなど正気の沙汰ではない。実際、お前の腕は食いちぎられ、あわや腕を失いかけた――いったいなぜだ」白い犬は三蔵を問い詰めるように声を荒げた。

「だから言ったとおりだ。誰かが罪を償わなければならんとな」三蔵は微笑んだ。

「お前は本気で人間どもが犯した罪を贖わんと思っているのか」

「ああ」

「お前は人間どもがどれほどの悪業をなしているか承知しておろう。それを贖わんとすれば、どれだけの苦しみを身に受けねばならぬか分かっているはずだ」

「ああ、分かっている」

「ならば、なぜそこまでする」

「――それが菩薩行だからだ」そう言って、三蔵は微笑した。

「菩薩行……」犬はしばし黙った。そして再び言った。

「お前がこの地に来たのは、菩薩行をなさんとするためか」

「そうだ」

 その言葉を聞いた犬がふふと笑った。

「――面白い。そういうことであれば、俺はお前に手を貸してもいい。ただし条件がある。お前が為さんとする菩薩行を最後まで見届けさせてもらおう」

 三蔵もふっと笑った。

「お前もおかしなやつだな――いいだろう、好きにするがいいさ」

「ならば今日から、俺はお前の寺に住まわせてもらう」

「住むの勝手だが、生憎うちの寺は貧乏でな、食い物まで恵んでやる余裕はないので、そこは自分でなんとかしろよ――そうだ、まだお前の名前を聞いていなかったな。俺の名は三蔵。お前の名は?」

 犬はじっと三蔵を見つめ、そして重々しく言った。

「――スサノオだ」

 三蔵はそれを聞くとうっすらと笑った。

「ねえ、スサノオって、日本神話に出てくる神様じゃなかったっけ」楓が横から口を挟んだ。

「おい女、軽々にものを言うな」犬がぎろっと楓を睨んだ。

「スサノオよ、この女においなどというと後が怖いぞ。この女の名前は小楢楓というのだ」

 三蔵の一言が耳に入った途端に楓の顔色が変わった。

「ちょっと、それどういう意味よ、ひどいのはあんたの方でしょ! いきなり素っ裸で現れるわ、人を呼び捨てにするわ、しかもいきなりこんな怖い目に合わせるなんてさ!」

「冗談だよ、冗談……それよりお前、素っ裸っていうけど、お前のほうこそ、そんな格好で大丈夫なのか」

 三蔵の言葉を聞いて、楓はふと自分の体がやけにすうすうするのにようやく気づいた。嫌な予感がして恐る恐る下を見ると、なんと上半身ブラジャーだけで三蔵の前に立っている自分に気づいた。

「キャー、いやだ! こっち、みないでよ、変態!」そう言ってすぐに楓は胸を隠してしゃがみこんだ。

「……見ないでって言われても、そんなかっこで突っ立ってたんじゃ……そりゃ、見ちまうよな……」

「見たのね!」

「お前だって、俺の裸、見たろうが」

「あんたの裸なんてどうだっていいのよ!」

「わかった、わかった――とにかく、ほらこれ着ろ。こんなとこでそんなかっこしてると風邪ひくぞ」

 そういうと、三蔵は着ていた法衣を楓に渡した。

「ほんと、信じられない! もう、やだあ!」

 その様子を見ていたスサノオは呆れた様子で一つ大きな欠伸をし、ぼそっとつぶやいた。

「――どうやら、騒がしい生活になりそうだな」

 

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