リュウが住むマナハイムの街は人口三万人程度だが、国境近くにあるため隣国と交易するものたちの往来が盛んで街は大いに栄えていた。旅人が多いこうした交易都市で酒場や娼館が賑わうのは歴史の常であるのかもしれない。アルコール臭が混じったごみ溜めのような匂いを充満させたマナハイムの繁華街は毎夜毎夜、たまの憩いを酒で紛らわすものたちや、溜まりに溜まった性欲を満たそうとする男たちでいつも賑わっていた。
そんな笑い声や怒鳴り声が飛び交うマナハイムの繁華街をリュウはいつものように黙りこくって歩いていた。旅の客を自分の店に誘い入れようとするけばけばしい化粧をした女たちがそこかしこに立っていたが、歩いてきたのがリュウだと知ると皆こそこそと話をしながらそっぽを向けた。だがリュウはそんなことは歯牙にもかけず、繁華街の外れにある古びた酒場の戸を開いた。
そこはこの街の住人向けの酒場で、造りも質素でそれほど騒がしいわけでもなく、酒代もぼってるわけではないので、リュウが顔を出せる唯一の店だった。リュウはいつものようにカウンターの端の席に座ると腰の剣を脇におろした。
「お前か……金はあるのか」
店主がリュウの前に近寄ってきて、不機嫌そうに尋ねた。リュウは相変らず無表情でポケットからじゃらじゃらと小銭を出すと、カウンターに乱暴に置いた。店主はそれをかっさらうように奪うと、ビールを無造作に置いて離れていった。
リュウがビールを手にかけ口に運ぼうとしたとき、店の中にいた一人の女が隣の席に座ってきた。この店で働くサラという女だった。
「リュウじゃないか、久しぶりだね――なんだい、今日も面白くないことがあったって顔だね。たまには女でも買って、うさを晴らしたらいんだよ」
「――うれせえな。お前なんか、もっと金のある客の相手してりゃいんだよ」
リュウは不機嫌そうに、だがそれでも幾分かは人間味のある顔をして言った。
「ふん、こっちだってプライドがあるからね。嫌な男に抱かれるくらいなら、そいつのペニスを食いちぎってやる」
この店も他の酒場と同様、一応は娼婦を何人か揃えているのだった。娼婦たちは金を持ってそうな客の隣に座ってその気にさせ、交渉が成立すると、店の二階にあがって体を売る。そういう仕組みになっていた。
リュウは娼婦らしからぬサラの言葉を聞いて失笑気味に笑うと、ビールをぐいと喉に流し込んだ。
突然、吹き抜けになっている二階から女の叫び声が響いたと思ったら、酔っぱらった男の怒鳴り声と人を殴る音が聞こえてきた。店内は一瞬にして静まり返った。二階の一室の扉が乱暴に開き、既にすっかり酔っぱらって赤い顔をした男が顔を出したかと思うと、素っ裸同然の娼婦を抱えて階段をよろよろと降りてきた。そして女をホールに投げ捨てると店主に向かって喚きたてた。
「なんだ、このあまは! 満足にしゃぶることもできねえじゃねえか。おい店主、どういう教育してやがるんだ。しかもこんな貧相な女をあてがいやがってよ。しかも俺の拳がすりむいちまったじゃねえか!」
男は醜く太った体を晒しながら、拳を店主に見せつけた。その拳は女の血で真っ赤に染まっていた。よく見ると床に放り投げられた娼婦の目の周りは大きく腫れ上がっていた。
「――どうも、すいません。そいつは新入りで……でも、それは旦那だって承知だったじゃないですか」
店主は目の前の客の機嫌を取るように媚びた笑いを浮かべた。
「こんなかすみてえな女だとは思っても見なかった――おい店主、お前はこんな商売してるくせに分かってねえなあ。女ってのは上手にしゃぶって、腰振ってりゃいんだよ。分かってんのか、そう言う風に教育しなきゃいけねえんだよ。お前がしっかり教育してねえから、俺がわざわざ教育しなきゃいけなくなるじゃねえか」男は、酔いも加わって、しゃべりちらした。
「すっかりしらけちまった。おい、もっと別な女はいねえのか、もっと活きのいいのがよ。金は弾むから、誰か活きのいいのよこせ――おお、そこになんだか生意気そうな女がいるじゃねえか、そいつでいい」
そう言うと男はいやらしい笑みを浮かべてサラの方に近寄ってきた。
「ほお、近くで見ると意外といい女じゃねえか。おい上に行くぞ。たっぷり可愛がってやるからよ」
男はサラの体を舐めるように見て、いやらしく笑ったが、いきなりその顔に水がぶっかけられた。
「誰があんたみたいな豚の相手なんかするもんか! とっとと出てって二度と来るな!」サラが冷たい目で言い放った。
男は最初何が起こったのか分からなかったようで、びしょびしょになった自分の体を呆けたように眺めていたが、ようやく自分が娼婦から水をかけられたのだと悟り、急にその顔を怒りに染めた。
「てめえ、娼婦の分際で、この俺に水をかけやがるとは、勘弁ならん!」
そう言うや男はサラ向かって拳を振り上げた。だがその拳は別な男の手に掴まれていた。リュウであった。
「いてええ、いてええ、てめえ、なにしやがるんだ。俺を誰だと思ってる。この街の警察署長だぞ。こんなことして、ただですむと思っているのか!」
リュウはその言葉を聞くと、さらに強く手首を握りしめた。
「……や、やめろ、手が折れる……やめっ、うわあああ」
警察署長を名乗る男は喚き声をあげて蹲った。リュウに掴まれた手首の骨は完全に折れていた。
リュウは手首を抱えて蹲る警察署長を冷徹な目で見降ろしていた。
「――て、てめえ、なんてことしやがる。おまえは即刻、牢屋にぶちこん……」
警察署長が狂ったような目つきでリュウに悪罵を浴びせようとしたが、その言葉は途中で途切れた。リュウが署長の頭を思いっきり踏みつぶしたからだった。リュウはブーツをぐりぐりと署長の頭に押し付けた。
「……お、おまえ、こんなことして、た、ただですむと思ってるのか……」
署長が吐き出すように言った。
「――てめえは力があるんだろ。だったら俺の足をどけてみろよ」
リュウはそう言いながら、署長の頭をさらに踏みつけた。
「俺なんかの汚ねえ靴底の下で無様な格好だな。えらく威張り腐っていたが俺なんかの足もどかせられねえのよか。そんなやつに何の力があるってんだ。てめえみてえな奴がいるから、世の中が臭くてたまらねんだよ。てめえみたいなやつが一丁前にペニス生やしてるから、女たちが苦労するんじゃねえか、こんなもんは切り取った方がのちのち面倒の種が減るってもんじゃねえのか」
リュウはそう言うと、脇においた鞘から剣を引き抜き、その切っ先を署長のパンツの上に置いた。
「ま、まて、や、やめてくれ――分かった、今日のところは勘弁してやる」
「勘弁してやるだと、ずいぶんと偉そうじゃねえか」
そう言うと、リュウは剣を股間に押し付けた。
「悪かった、俺が悪かった……許してくれ……頼む」
署長の顔は青ざめ、声は震えていた。
「……リュウ、これ以上はやめとけ」店主が恐る恐るリュウに話しかけた。
「うれせえ、黙ってろ! てめえ、自分んとこの女がこんな目に遭ったっていうのに、女には目もくれず、こんな糞みたいなやつに媚びやがって――てめえもこいつと同じだ。やってることは何にも違っちゃいねえ、弱い奴には威張り散らすくせに、強え奴には卑屈な笑いを浮かべて揉み手をしながらへこへこ頭を下げやがる。弱い奴から分捕るのは当たり前だと思ってやがる。おい、てめえらのどこにそんな力があるんだよ、言ってみろよ!」
リュウの怒りを含んだ声が店主をたじろがせた。
「てめえらはなんの力ももっちゃいねえ。てめえらが威張り腐っているのは、たまたま世界がてめえらに都合がよくできているからだ。そういうことをしても許される世界にたまたま生まれてきたからだ。何一つ、自分で勝ち取ったもんじゃねえ。すべて、世界のおこぼれを啜っているだけにすぎねえ」
そう言うと、リュウは再び署長を見下ろし、周りに宣告するように言った。
「お前らはどいつもこいつも同じだ。自分がやばくなると恥も外聞も捨てて、詫びの言葉を並べ立て、ちょっと頭を下げればそれですむと思っていやがる。自分がどんなことをしでかしたかも忘れ果ててな――いいか、どんなに詫びても悔いても、やっちまったもんは取り消せねんだ――人は自分のした行いに責任を持つ必要がある。自分がした仕打ちの報いをうける必要がある。だから、この豚も報いをうけなくちゃならない」
この間ずっとリュウの靴で頭を押えられていた署長は恐怖で頭がおかしくなったのか、へらへらと笑い始めていた。
「――おい、てめえがした仕打ちの報いはこれだ」
リュウはそう言うと、無造作に剣をぐいと押し込み、股間に突き刺した。獣のような喚き声が店内に響き渡った。署長は真っ赤に染まった股間を押さえて床の上をのた打ち回った。
リュウは暗い目でその様子を見ると、剣を鞘に納めて戸口に向かって歩き出した。その場にいた者は皆茫然として、誰一人としてリュウに声を掛けるものはいなかった。リュウは扉を開いた。
その時、後ろから声が聞こえた。
「リュウ!」
後ろを振り返ると、そこにはサラが立っていた。
「リュウ……ありがとう」サラは小さくそう言った。
リュウはそんな言葉は聞きたくないとばかりに踵を返すと扉をバタンと閉めた。
外に出たリュウは空を見上げた。空には満天の星々がいつものごとくに美しく光っていた。リュウはその光が忌々しく思えた。ちっと舌打ちをすると、相変らず喧しいマナハイムの繁華街を憮然として歩み去っていった。