「やめろ!」
静まり返っていた広場に、堂々たる声が響いた。その声は戦場で万の兵を叱咤する将軍の命のように、その場にいた全てのものの腹に響き渡った。さしもの署長の耳にもその声は届いたと見えて、顔をあげてきょろきょろと声の主を探した。すると一人の剣士が群集の間から現れた。それを見た群衆がひそひそと話し始めた。そしてその声はだんだんと大きくなっていった。
「あの男、もしや聖騎士レインハルト様じゃないか」
「そうだ、あの方のお姿を一度お見かけしたことがある」
「ああ、あの胸当てに刻まれたエンブレムを見ろ。百合の紋章だ、聖騎士の紋章だ!」
広場はいつか喝采に包まれていた。
レインハルトは署長を無視してリュウの方に近づくと、ハンカチで顔の血を拭った。リュウはかすかに息をしていた。レインハルトは一瞬安堵したような顔をしたが、すぐに真顔になり民衆に向かって叫んだ。
「みな、手を貸してくれ! このものをベッドに運ぶのだ。医者を呼べ、すぐに腹を縫合するのだ。熱いお湯と綺麗なタオルをすぐに準備しろ!」
今まで署長の前で一言もなく、身動き一つできなかった市民が我先にとレインハルトのもとにかけより、リュウを抱え上げた。その中には医者もいたと見えて、あの角の私の診療所に運んでくださいと大きな声で担ぎ手たちに指示していた。担ぎ手たちは大事そうにリュウを持ち上げると、急いで走り去っていった。署長はその様子を呆けたようにみつめていた。
レインハルトは署長の前に立つと、厳しい目つきで詰問した。
「そなたがこの街の警察署長か。私は預言者エトによって選ばれた聖騎士レインハルトだ」
署長は何が起こっているのか理解するのにしばらく時間がかかっていたが、ようやく状況を悟ると、今までの面相とは一転して、もみ手をし卑屈な笑いを浮かべて、ぺこぺこと頭を下げ始めた。
「これはこれはレインハルト様、お噂はよく聞いております。こんな辺境にお出でくださるとは聞いておりませんで――ご連絡をいただければ、盛大に歓迎いたしましたのに」
レインハルトは署長の空々しい話を手で遮った。
「あなたは何の権威に基づいて、このような横暴を行うのか。しかも、このような刑は国法においても神の教えである律法においても許されておらぬはず」
署長はまるでレインハルトに取り入るように薄ら笑いを浮かべた。
「あのものは極悪人です。人の皮をかぶった悪魔です。人を何人も殺し、知事の息子をも容赦なく殺したのです。人間ではありません。そのようなものを裁くのに人間の法を適用させる必要などございましょうか」
「私には、あなたこそ悪魔に魅入られているとしか思えんがな」
「何を証拠に。私は勤務に夢中になりすぎるきらいはありますが、至って善良な人間でございます」署長はへらへらと笑った。
「ならば神に問おう。あなたは私が良いと言うまでそこに立っていなさい。もし何事もなければ、あなたは神に愛でられた人間だとみなそう」
レインハルトは重々しく言うと、今度は民衆に向かって叫んだ。
「今から、この男は神に試される。誰一人、この男に近づいてはならん!」
そう言うと、レインハルトも署長から離れ、民衆の列に加わって厳しい目で署長の姿を見つめた。群衆の輪の中でたった一人、署長はきょろきょろと周りを不安げに見渡して突っ立っていた。
「――こりゃいったい、なんの余興ですか。こんなことして、何が起こるっていうんですか」
署長は冗談でもいうように軽口をたたいたが、その顔はひきつっていた。今までと同じように大勢の人が遠巻きに囲んでいたが、誰も彼も氷のように冷たい目で署長を見つめていた。その人の輪はまるで鎖のように署長を取り囲み、蟻一匹這い出る隙間もなかった。
「……いったい何が起こるっていうんだ。あの野郎、おかしなことをいいやがって、何にも起こるわけないじゃないか……」
署長はぶつぶつとつぶやいていたが、その額には脂汗がにじんでいた。
その時だった。
何か巨大なものが背中にぶつかった。署長は極度に太っていたためバランスが取れず、無様に前に倒れ込んだ。用心のためにずっと握っていた剣も遠くに転がっていった。何事かと思って後ろを振り向くと、そこには大きな豚がいて、じっとこちらを見つめていた。それは、さきほど鞭で叩き、剣で殺し、追い回した豚の一団だった。豚は真っ黒い目で署長を見ていた。その目は妙に生々しく、ぬらりと濡れていた。
突然、先頭の豚が大きく鼻を鳴らした。するとたちまち、群れ全体が物が憑いたように極度に興奮し始めた。その口からは赤い舌と白く尖った牙が覗いていた。
「あっちへいけ、この野郎。叩き殺すぞ、あっちへいけ!」
署長は仰向けのまま、体を後ろにずり動かしながら豚に怒鳴り散らしたが、豚たちの興奮は止まず、逆にじりじりとにじり寄ってきた。
「豚ども、あっちへいけ! おいお前ら、この豚どもを捕まえろ!」
異常な空気に恐れをなした署長は思わず部下に命令したが、部下の誰一人として動こうとするものはいなかった。
いつの間にか署長は豚に取り囲まれていた。自分の顔の上に豚の顔がいくつも並んでいた。どれもこれも真っ黒な目で署長を見つめ、涎を垂れ流していた。
「や、やめろ、やめてくれ、た、助けてくれ! 誰か、助けてくれ!」
それが最後の言葉だった。豚は署長の鼻に噛り付いた。頬を噛り取った。目を貪り啜った。耳を引き裂いた。服を噛みきり、腹の肉を喰いちぎった。内臓が見えると、我先にと顔をうずめて腸を貪り食った。ズボンも食い破られた。醜く崩れたペニスの残骸があったが、豚はそれも喰い始めた。聞くに堪えぬ悲鳴が轟いたが、それもすぐにやみ、肉を食う音、骨を砕く音、内臓を啜る音、ただむさぼり喰う音だけが空虚な空に響いた。
何分たったのだろう、豚たちがようやくその場を離れた。その場に残ったのは白骨となった署長の残骸だった。豚は何事もなかったかのように、もといたところに戻ってきて、大人しくしていた。人々はそれをみて、ようやく息をついた。すると、所々から歓声があがり始めた。
「終わった! 終わったんだ!」
「みんな、俺たちは、ようやくあの悪魔から解放されたんだ!」
「平和だ、待ちに待った平和がやって来たんだ!」
「神は私たちを救ってくださったのだ!」
人々は興奮したように喚き始めた。
だがその時、再びレインハルトの声が人々の頭上に響き渡った。
「諸君、神意はかくの如く峻烈にあの男に下った。悪は神によって地獄の底に追い払われた。神の御心と御業を目の当たりにして、私も諸君と共に神を称えたい、喜びの酒を酌み交わしたい――だが、私は諸君に対しても怒りを禁じえない。諸君はなぜ、あのような暴虐を黙って見逃していたのか。なぜ誰一人、あの男の横暴に立ち向かおうとしなかったのか。あの男が地獄に落ちて、諸君はこれでようやく平和が戻った、自分たちは救われたと思っているのかもしれない。だが神の眼をごまかすことはできない。あの男の審判は今下ったが、諸君らの審判はまだ終わっていないのだ。諸君は裁きの時、神の前に立たねばならぬ。その時には、これまでの己の振る舞いを神の前で弁明しなければならないのだぞ!」
レインハルトの言葉は喜び勇んでいた市民の心にとげのように突き刺さった。
「もしかしたら、諸君はこう言うかもしれない。私には、あの男に立ち向かえるだけの力がありませんでしたと――ならば聞きたい。諸君は自分より強い相手には、ただ怯えるだけで何もせず、相手の言いなりになるしかないというのか。その行為がどれほど悪に塗れていても、見て見ぬふりをするというのか。相手の機嫌を伺って、ひたすら媚を売って奴隷のように生きるというのか――それが、勇気を持った人と言えるのだろうか、それは臆病者のすることではないのか。真の勇者とは、力のあるなしではない。あの少年ように、あの娼婦のように、己の力を超えるものに対しても臆せず、敢然と立ち向かうことではないのか。私は諸君に聞きたい、諸君は自身に勇者の資格があると思うか! 諸君、神を畏れぬ不吉な風がこの世を覆っている。だが、諸君はたった今見たはずだ。神がこの世界をじっとご覧になっていることを。神は今まさにこの上にいらっしゃって、諸君を見ているのだぞ! これからの人生を神ともに生きるか、それとも汚濁にまみれて生きるか、それは諸君次第だ。だがもし、この光景を目の当たりにしても行いを改めぬというなら、諸君もきっとあの男と同じ運命をたどることになろう!」
皆、下を向いてうつむいていた。誰一人顔を上げられるものはいなかった。だが、子ども達だけは目を輝かせてレインハルトの姿を見つめていた。レインハルトの後ろに神の姿を見ていた。レインハルトは近くによってきた少年がきらきらと光る眼で自分を見ているのをみると優しく微笑んで、その頭を撫でた。その少年はおそらく死ぬまで、この日のことを忘れることはないであろう。聖騎士レインハルトに祝福された日のことを。
こうして、マナハイムを襲った闇は聖騎士レインハルトによって取り払われた。それは一瞬の雲の切れ間であったのかもしれない。だが確かに神はそこに現れ、神の御業を示されたのだった。