ジュダはレインハルトが部屋を出ていくと、にやりと笑った。その顔は神の名を口にして祈りを捧げたさきほどまでの真摯な顔とはまるで違っていた。その表情には邪悪で傲慢な笑みが宿っていた。ジュダは机にあった呼び鈴を鳴らした。すると数秒もせぬうちに執事のアモンが別な扉から現れた。アモンは目の前の美しい主人に腰をかがめると甘ったるい声で尋ねた。
「いかがでございました。あのレインハルトという男は」
ジュダは優雅にソファーに腰を掛けると、くくと笑いをこらえきれぬように言った。
「あの男、この私に向かって、神の名を語って嘘をつくものは必ずや神の怒りを買い、あの豚よりも悲惨な末路を迎えることになろうなどとぬかしおったわ。あやうく、笑ってしまうところだった」
「ジュダ様にそのような物言いをするとは、なんたる無礼な男」
「まあいい。あの男はいずれ、想像すらできぬほどの苦しみを味わう羽目になるであろうよ――まさに神のごとき力によってな」
そう言うと、ジュダは凄まじいばかりの笑みを浮かべた。
「ところで、あのリュウという男はいかがいたしましょうか。死にかけているようではありますが、もし命をとりとめたとすれば捨ておくわけにもいきませぬのでは。なんと言っても、カイファ様を殺した男ですし……」
「アモンよ。実は、これだけはリュウという男に感謝しているのだ。私とは似ても似つかぬ、あのくずのようなカイファを私の眼の前から消してくれたのだからな。まあ、あのカイファを生んだ女も裕福な貴族出身というだけが取り柄の淫乱な雌豚だったがな――結局、豚は豚しか産まんということだよ。いったいにして、この世界は豚が多すぎる。人間とは名ばかりの腐った豚がな。そんな豚どもは一匹残らず屠殺してしまわんと臭くて息もできんわ」
「仰せのとおりでございます」
「――しかし、どうしたものかな――レインハルトは明らかにあのリュウという男を捜しにこの街に来たのだ。つまり、リュウにはレインハルトほどの男が求める何かがあるということだ」
ジュダは、この男には珍しく心を決めかねるような面持ちで顎に手をやり、しばし沈思していたが、ようやく心が定まったと見えてアモンに命じた。
「――アモンよ、あの二人から目を離すな。レインハルトが何をしようとしているのか探るのだ」
「承知仕りました」
そう言って深く頭を下げると、アモンは音もなく部屋から出て言った。
ジュダは一人ソファーに座り、正面の壁に飾られた絵画を眺めていた。その絵の中では嵐の中で荒れ狂う海に翻弄される船団と、その上で逃げ惑う人々がリアルに描かれていた。その荒れ狂う海から龍の如き様相をした怪物が頭を出していた。その怪物は口から火を吐き船を焼き尽くし、鼻からは煙がもくもくと立ち昇っていた。その皮膚は金属のような固い鱗に覆われ、人々が射る弓矢を悉く跳ね返していた。
これこそ、この地上の中で並ぶものなく、恐れを知らぬ生き物として創られたというリバイアサンであった。あらゆるものを睨みつけ、あらゆるものを治める地上の王であった。ジュダはその絵を眺めながら小さくつぶやいた。
「……まさかな」
レインハルトは知事公館を後にすると、ルークの家に戻ろうとはせず別な道を歩き始めた。道沿いには露店が並び、商人の声が明るく響いていた。警察署長の死が民の心を明るくしているのだろうか。こうしてみると、少なくてもジュダは民にとって権威者であるにしても、あの警察署長のような圧制者でないことは確かなようであった。ジュダという男は相当頭が切れるのだろう。狡知に長けた権力者は民に権力の臭いを感じさせないものだ。自由であると思わせつつ民を支配するものこそが、真の権力者といえる。そういう意味では危険な男であった。おそらくジュダは王や教皇の側近たちともつながっているのだろう。レインハルトが訴えたところで、証拠もないこの状況ではジュダを追いつめることは難しいと思われた。レインハルトはこの件でジュダを追いつめるのは既に諦めていたが、気になることがいくつかあった。
その一つはジュダの部屋に飾られていた絵であった。荒れ狂う海から姿を現し、人間たちを死に導くリバイアサンを描いた絵。それは神の怒りを畏れよと、人々に警鐘を鳴らす絵とも見えたが、そこに描かれたリバイアサンはあまりに神々しく、神のごとき圧倒的な姿で人に迫り、ある意味美しすぎるように思われた。そのことがレインハルトには気になっていた。そしてもう一つは、ジュダが聖堂会のマスターであるらしいということも、レインハルトの心に影を落としていた。預言者エトからの手紙に書かれていたことが真実であるとすれば、あのジュダという男はいずれ大きな脅威として立ち上がってくるだろうと思われた。そのためにも確かめねばならなかった。リュウという少年の過去を。