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【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(二十)彷徨 

 この一年という日々は、レインハルトにとってかけがえのない日々だった。生まれて初めて家族のぬくもりを知った。生まれて初めて人から愛された。自分が笑えるということを知った。自分が人の役に立てるということを知った。生きることの喜びを知った。この世界に生きていんだと知った。

 今朝まではこんな生活が一生続くと思っていた。それが一瞬のうちに失われた。自分の魂が一瞬のうちに打ち砕かれた。

 レインハルトは何も考えられなかった。ふらふらと外に出て、そのまま森を彷徨い歩いた。腹も空かなければ、喉も乾かなかった。目はうつろで足取りはおぼつかなかった。それでも、ふらふらと歩き続けた。

 陽はとっくに暮れて、森はすっかり闇に覆われていた。それでもレインハルトは歩いていた。つまづき、転び、それでも立ち上がり、ふらふらと深淵の中を歩き続けた。それはまるで心の中を彷徨っているようであった。暗く、深く、出口の見えない深い森。

 

深い森

 

 不意にその暗闇の中に灯が見えた。
 レインハルトは灯に集まる蛾のように、そちらの方にふらふらと歩いて行った。よく見ると、それは焚火の明かりだった。木々の合間で誰かが焚火に手をかざしながら話をしていた。
 しわがれた男の声が聞こえてきた。

「――いや、しかし、ついていたな」

「まったくだ。しかし今時、あんな間抜けがいたとはな――いや、思い出すだけで笑いがこみあげてくるわ」

「それは、こっちのセリフだ。あのじいさんにパンを恵んでもらって、ほかに何か欲しいものはありませんかと聞かれたときに、お前が、できればワインも飲みたいなどとほざいた時には、俺は思わず吹き出しそうになったぞ」

「ふふふ――そしたら、あのじいさん、どうぞどうぞとわざわざ家まで案内して、ワインも肉もたらふく食わせてくれるとはな」

「まったくよ――しかし、そこにいたのが、ばあさんだったのはちと残念だったな」

「確かにな、これが若い女だったら、たっぷり可愛がってやれたのにな」

「まあ、そこまで贅沢は言うまい。それにあの夫婦、意外に金目のものを持っていたからな。この指輪なんて、結構な値打ちものじゃないか」

「いや、俺の見立てではたいしたものではあるまい。お前は光ものを見ると、すぐ分別をなくすからいかん。別に指を切り落としてまでひったくることもあるまいに。たぶん結婚指輪か何かであろう、可哀そうではないか」

「何が可哀そうだ。いきなり袈裟斬りにして、ぶった切ったくせに」

「おい、俺が斬った時のあいつらの顔覚えているか――だめだ笑いがこみあげてくる」

「おい、笑わせるな、こっちまで笑ってしまう」

「だってお前、間抜けな顔して、口を半開きにして、なんでみたいな面してんだぜ――もうだめだ、あいつらの馬鹿面思い出すだけで、笑いがこみあげてくる」

「やめろ、もう言うな。俺も吹き出しそうになる――だ、誰だ、てめえ!」

「カエセ……」

 二人の前に突っ立ったレインハルトが小さな声でつぶやいた。

「はああ? なんなんだ、てめえはよ!」

「てめえ、俺たちの話を聞いたな」

 二人の追剥たちは立ち上がると、腰の剣をすらりと抜いた。
 それを見ているのか、分かっているのか、レインハルトはただ下を向いてつぶやいた。

「返せ……その指輪を返せ……おれの家族を返せ……俺の父さんを返せ……俺の母さんを返せ……俺を……返せ……」

「ははん、てめえはあのじいさんの息子か――つまり、かたき討ちに来たってわけか。ガキの癖に殊勝な心掛けだな。しかしよ、かたき討ちが手ぶらじゃ、しょうがねえだろよ、この間抜け」

 追剥の一人がそういうと、残りの一人がぐふっと笑った。

「親父も間抜けだと、ガキも間抜けになるわけだ。こりゃいかんわ、間抜けは遺伝するらしいぞ」

「しょうがねえ、間抜けどもは俺たちで駆除してやるしかあるまい。こんなことで神様の手を患わせることもあるまいからな」

「そうだな。お前もここで殺してやる。死んで間抜けなじじいとばばあと一緒に神様に詫びてこい」

 追剥はそう言ったかと思うと、剣をレインハルトの腹に突き刺した。追剥はにやりと笑った。

「なあガキ。世間ってのを知らねえと生きていけねえんだよ。力がねえ奴は生きている資格なんてねえんだよ。力があるやつが生き残るんだよ。今頃分かっても遅えがな……て、てめえ、何を」

 レインハルトは腹に剣が突き刺さっているにも関わらず、痛みも感じていないのか、そのままぐいと追剥の方に近づいた。剣はサラにレインハルトの腹を突き刺し、切っ先が背中から飛び出した。

 レインハルトは、ゆっくりと追剥の顔に手をやった。そして、感情のない目で追剥を見ると、いきなり顔面に齧りついた。

 追剥の悲鳴が闇夜に轟いた。

「て、てめえ!」もう一人の追剥が震えるように声を出した。

 レインハルトは顔を抑えて、もだえ苦しむ男を押し倒すと、もう一人の男の方を向いた。その腹には剣が突き刺さったままで血がだらだらと流れていたが、レインハルトは気にする素振りすら見せなかった。

「返せ、その指輪を返せ……」

 レインハルトは追剥が小指に嵌めている指輪をみつめて言った。

「て、てめえ、よくもやったな!」

 追剥は刀を構えて怒鳴り声をあげたが、その声は震えていた。

 レインハルトは自分に刀が向けられているというのに、まるでそれが見えていないかのように近寄っていった。

「く、来るな、お、俺に、近寄るな!」

 追剥は刀をぶるぶると振るわせながら、さらに吠えた。
 だがその声もレインハルトには届いていないかのようで、レインハルトは歩を進め、追剥の目の前に立った。追剥の刀がレインハルトの胸にあたっていた。
レインハルトはそれを見ると無造作に刀を掴んだ。掴んだ握りこぶしから血が滴った。

 それを見た追剥は裏返ったような声をあげた。そしてまるで蛇に睨まれた蛙のようにぶるぶると震えて、そのまま刀を離した。レインハルトは掴んだ刀をひっくり返して柄を握った。そして刀を大きく振り上げ、追剥の頭に叩き下ろした。追剥はレインハルトの前で一歩も動けず、固まったように場に突っ立っていたが、一瞬の後、その体は真っ二つに寸断されていた。時が止まったように目を見開いて、追剥はそのまま後ろに倒れ伏した。レインハルトはそこにしゃがみ込むと、追剥の小指を噛み切った。そして、そこに嵌められていた指輪を大事そうに抜き取った。

 後ろでは頬を齧り取られた追剥が苦悶の声をあげて呻いていた。レインハルトはその男の方を振り向くと、ふらふらと近寄っていった。そしてその男の上に馬乗りになると、その男の顔をめがけて拳を振り下ろした。体重を乗せた渾身の拳を何度も何度もその顔に振り下ろした。鼻が折れた。両目が潰れた。顎が砕けた。最初はひいひいと喚いていたが、悲鳴も徐々に弱まり、いつしか声は止んでいた。レインハルトの拳も骨が完全に砕けていた。自分の血か、追剥の血か、とにかく拳中が真っ赤でぬるぬると濡れていた。だが、それも一向に気にならない様子で、レインハルトは追剥の顔をひたすら殴り続けた。何十、いや何百か、とうとう鈍い音がして、頭蓋骨が割れた。脳みそが見えた。だがレインハルトは、今度は脳みそに向かって拳を振り下ろした。凄まじい光景であった。もはや追剥の首から上にあったものは、ぐちゃぐちゃの肉塊だった。脳みそが飛び散り、骨も粉々に砕けていた。

 もはや殴るものがなくなり、その拳が地面を叩いたとき、レインハルトは初めて自分が何をしているのか気づいた。レインハルトは立ち上がると、周りを見渡した。そこには真っ二つに切断された男と、頭蓋骨が砕け脳漿が飛び散った男の死体があった。自分の腹には剣が突き刺さっていた。自分の拳は血にまみれ、粉々に砕けていた。レインハルトは拳を開いた。そこには血まみれになった老婦の指輪があった。
 それを見た瞬間、レインハルトは狂ったような叫び声をあげた。その叫び声は暗い森の中に轟き渡った。

 

 レインハルトは森の中を彷徨った。
 闇の中をひたすら彷徨った。
 苦しかった。
 生きるのが辛かった。
 神が呪わしかった。
 神の作ったこの世界が憎くてたまらなかった。
 何度も死のうとした。
 崖から飛び降りた、頭を岩に叩きつけた。
 だがどうしても死ねなかった。
 神はレインハルトを死なせてくれなかった。

 レインハルトは鋭利な石で手首を切ると、その場に横たわった。手首からどくどくと血が流れ出した。レインハルトはこれでようやく死ねると安堵した。
 しばらくすると、レインハルトの意識が遠のいてきた。すると、遠くの方から光に満ちた男が近づいてくるのがうっすらと見えた。その男はレインハルトの前に立つと、優し気に語り掛けてきた。

「――レインハルトよ、どうしてそんなに死を急ぐのだ」

 レインハルトは目を開けて、目の前の男をぼんやりと眺めた。光に満ちたその男は老父のように見えた。

「……父さん、俺はもうこんな世界で生きていたくないよ」

 レインハルトはつぶやくように言った。

「なにをいうのだ。偉大な神が作られたこの美しい世界で生きていくことは何よりも素晴らしいことではないか」

「……正しいことをしてきた父さんと母さんにあんな仕打ちをする神のどこが偉大なんだよ。こんな残酷な世界のどこが美しいんだよ」

「レインハルトよ、わたしは正しいことをしたからこそ、お前と出会たのではないか。わたしがあの時、お前に施しを与えなかったら、わたしたちはお前の父と母になることもできなかったのだよ」

「だけど、父さんはやつらに施しを与えたために命を奪われたんだよ――そんなの理不尽じゃないか。おかしいじゃないか」

「なにもおかしいことではないのだよ。わたしは見返りをもとめて施しをおこなってきたのではない。与えられたものが何を得て、何を返すのか、それは与えられた人間が決めることだ。だが、お前は私たちに素晴らしい贈り物を返してくれた。それだけでも私たちはなんと幸せであったことであろか。なんと恵まれたことであろうか」

「……父さん、俺には分からないよ。なんで父さんはそんな風に思えるんだ。なんで神を許すことができるんだ」

「神の御業は量り知ることができない。だが、神が私たちを愛してくれるているのは明らかではないか。私たちにお前という素晴らしい息子を与えてくれた。愛のなんたるかを知らなかったお前が愛を知ることができた。そして今、自分ではなく、私たちのために死を超えるような苦しみの中で悶え、苦しんでいる。それに神は、私たちの死がお前の成長のためにどうしても必要と考えられたのだよ。それも、神がお前を愛しているからこそなのだよ。そう思えば、お前ためにこの身を捧げられるなんて、こんなに喜ばしいことがあろうか。レインハルトよ、これ以上嘆くのはおやめ。お前は神によって選ばれたのだ。神のために戦うように定められたのだ。さあ立つのだ。私の手を取るのだ。お前はこれより、さらに学ばねばならぬ。そして神の手足となって偉大なことを成し遂げねばならぬのだ」

 光に満ちた男はレインハルトの前にその手を差し出した。レインハルトはその手をみつめていたが、ついに覚悟を決めたようにその手を取った。その瞬間、光は消え去えり、レインハルトは一人の老人にしかと抱きかかえられていた。その老人は老父に似ていたが別人だった。その男こそ、預言者エトであった。こうして、レインハルトは預言者エトに見いだされ、聖騎士となったのであった。

 

聖者

 

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