半刻ほども歩いたろうか。レインハルトの前に古びた建物が見えてきた。三階建てのだいぶ大きい建物でいくつも窓があるのだがどこも真っ暗で一階にあるたった一つの窓からだけ灯りが洩れていた。
男は建物の正面玄関の前に立つと、どんどんと戸を叩いた。しばらくすると中から足音が聞こえ、のぞき窓が開いた。
「誰だ」低い男の声が聞こえた。
「俺だ……」
「遅いじゃねえか。ガキはいるのか」
「それが……」
言いかけた男の背中にレインハルトの剣が当たった。
「……とりあえず、開けてくれ。いろいろと話があるんだ」男は懇願するように言った。
向こうの男はちっと舌打ちすると、ガチャガチャと鍵を開け、ゆっくりと扉を開いた。その瞬間、レインハルトは目の前の男の首に当身を喰らわせると、体を扉の中に潜り込ませた。
「だ、誰だ、てめえ……」
扉の中にいた男は思わず叫んだが、その時にはもう、レインハルトの剣が喉元にあてられていた。
「お前がこの家の主人か?」
レインハルトが低い声で言った。男は小さく首を横に振った。
「では、主人のところに案内しろ。大声を立てれば、その喉を切り裂く」
レインハルトがそう言うと、男は機械仕掛けの人形のように身を強張らせながら奥の方に進んでいった。
廊下を進んでいくと、少し先に一つだけ灯りが洩れている部屋があった。中からは笑い興じる声が聞こえてきた。レインハルトは案内してきた男に当身を食らわせると、倒れ込む男を跨いでドアを勢いよく開けた。
部屋の中には男が三人いて、テーブルに料理を並べて酒を飲んでいた。いきなり現れたレインハルトを見ると、一瞬、男たちは静まり返ったが、すぐに立ち上がって、怒鳴り声をあげた。
「誰だ、てめえ!」
「どこから入ってきた」
だがその中で、テーブルの奥に座った男だけはその場に座ったまま、じっとレインハルトの顔を見つめていたが、急に得心がいったと見えて、怒鳴り声をあげる他の二人を制した。
「おまえたち、座りなさい。この方は怪しい方ではない。聖騎士レインハルト様だ」
その男は一見して、ならず者のような他の二人とは異なっていた。光沢のあるサテンのブラウスを着て、その顔は薄化粧をしているようで妙に白く、頬には紅色のチークがさしてあり、唇はなまめかしいほどに赤く照り輝いていた。その男が鷹揚に立ち上がった。
「こんな夜更けに予想もしないご来訪でしたが、レインハルト様におかれましては、この館にどのようなご用件でいらっしゃいましたかな」
レインハルトはその男に詰問するように言った。
「私はちょうどこの近くで野営をしていたのだが、時ならぬ時刻に子どもらを連れてここを目指すものたちに遭遇した。そのものがいうにはここは孤児院だというが、そのものたちやそなたらの人相、風体、言葉遣い、どれを取っても、とても孤児院を預かるものとは思えぬ。ここでいったい何をしている。返答如何によってはただでは済まさん」
レインハルトの厳しい言葉を浴びて、横の二人のならず者は落ち着かず、きょろきょろと互いに目を見合わせていたが、正面に立った男だけはまるでその問いを待ち構えていたかのように薄笑いを浮かべた。
一方、リオラは子どもたちに食べ物を与えていた。どの子もものも言わずにがつがつと食べているところを見ると、相当、腹が空いていたようであった。リオラは子どもたちが食べ終わるのを見計らって、一番背の高い黒髪の男の子に声を掛けた。
「わたしはリオラっていうの、あなたのお名前は?」
「……レオン」
黒髪の少年はリオラを見上げると、ぼそっとつぶやいた。
「レオンか――よろしくね、レオン」
そう言うとリオラは笑いながら手を伸ばした。あまり、こういう対応に慣れていないと見えて、レオンはどうしたらよいか少し躊躇したが、リオラの優しそうな顔を見るとおずおずと手を伸ばした。
「レオン、あなたたちはどこから来たの? お父さんとお母さんはいないの?」
リオラの言葉を聞いた瞬間、レオンだけでなく他の五人の子どもたちも一斉にうつむいた。
「……どうしたの」リオラは心配そうにレオンの顔を見つめた。
「……親なんていないよ」レオンが小さな声で言った。
「どういうこと?」
リオラが問い質そうとしたその時、脇にいたリュウが吐き捨てるように言った。
「こいつらは、みんな親に売られたんだよ――わずかばかりの酒手欲しさにな」
リオラは、はっとしてリュウの方を向いた。
「リオラ、お前だって、親に捨てられたんだろうが。お前は運よくレインハルトに拾われたからいいさ。だがこの世界には、こいつらみたいな不幸面したガキが至る所にうようよしてるんだよ。そうなんだろ、てめえらよ」
リュウはそう言うと、下を向いてうつむいている子どもたちを眺め渡した。
「リュウ、そんな言い方しなくたって!」リオラがリュウに非難の眼を向けた。
「お前は甘ちゃんなんだよ。世間がどんなもんか全然分かっちゃいねえ。見ろ、そいつの耳を」リュウがリオラの前にいるレオンと名乗った少年に目をやった。
レオンは恥じるように頭を深く垂れたが、その耳を見た瞬間、リオラは思わず口に手をあてた。その耳は火傷の痕なのか醜く焼けただれて原形を留めていなかった。しかも、この傷はだいぶ昔のもののようであった。
「他のやつも、みんなそうだ」
そう言うと、リュウは近くにいた女の子の手首をつかんで上着をまくった。それは見るに耐えなかった。女の子の腕には紫色の痣が至る所にあり、ところどころ切り傷の跡もあった。
「ほら、てめえもだろ」
そういうと、リュウは後ろの方で蹲っている一番小さい男の子の顔をあげた。その子の顔はひどく腫れて出血し、目をあけることもできなかった。
「こいつらは糞みてえな親から虐待されて生きてきたんだよ。そんなやつらにいつまでも虐められるよりも、人買いだろうがなんだろうが面倒見てくれるところに行った方がよっぽどましじゃねえか。別に大したことじゃねえ。ガキだろうがなんだろうが自分で生きてくのは当たり前だ。奪う力がねえなら働いて返す、それが世の中の常識ってやつだ――わかったかガキども。だからてめえらもいい加減、その辛気臭せ面はやめろ。こっちまで鬱陶しくなる」
そう言われた子どもたちは相変わらず黙ったままだったが、別なところから声があがった。縛り上げられた男が得意げにしゃべり始めたのだった。
「その、あんちゃんの言う通りだぜ。ねえちゃんよ、俺たちは別にそいつらを親元から盗んできたわけじゃねえ。逆にそいつらの親がなんとか金に変えてくれと頭下げて頼むから、しょうがなく引き取ってやったんだ。しかもそいつらを養って、将来は働ける口をやろうってんだ。至極まっとうな話だろうが。そうは思わねえか。しかしあんちゃん、あんた世の中の仕組みってやつをよく分かってるよ。どうだ、俺を見逃がしちゃくんねえか。俺のポケットには結構な金が入っている。その金をあんたにやるから俺たちを見逃がしてくれ。あんたらはその金持ってこの場をずらかればいい。俺はお前に金を巻き上げられたと言えばそれで済む。どうだ、いい条件じゃねえか」
男はいやらしい笑いを浮かべて、リュウを誘った。リュウは少し考える風にしていたが、その男の前に歩み寄った。リオラと子どもたちはその様子を不安げに眺めた。
「てめえが言ったことはほとんど合ってるが、一つだけ嘘があるよな」
リュウは男の前に立つと冷たく言い放った。
「な、なんのことだ、俺はなに一つ嘘はついちゃいねえよ」男はリュウを見上げて言った。
「あの一番小さいガキの顔の傷は昔のもんじゃねえ。ついさっき、てめえらがぶったもんだろうが。じゃなかったら、なんであんなに血が出てんだよ! この豚野郎が!」
リュウはそう叫んだと同時にその男の顔を思いっきり蹴り上げた。男は縛られたまま後ろにぶっ倒れたが、誤解だ誤解だと騒ぎ立てた。
「ほう、じゃ当事者に聞いてみようじゃねえか――おい、そこのガキ。てめえをぶったのは誰だ!」
リュウは奥の方に蹲ったままの一番小さい少年に向かって怒鳴った。だが、その少年は体をぶるぶると震わせながら、ひたすらじっと下を向いていた。
「おいガキ――てめえは今はただのガキだ。体も小さくて力もねえ。でも、いつかでかくなるんだ。すぐにこんな奴ら、ぶっ倒せるようになる。だがな、逃げることを覚えたら、一生勝てねえ。そうやって一生びくびく怯えて生きなくちゃなんねえ。それでもいいのか、それでもいいんなら勝手にするがいい――さあ、てめえが決めろ、俺には関係ねえことだ」
そう言うと、リュウはぶるぶると震えている少年をじっと見据えた。
みんなの視線がその子に集まった。その少年はぶるぶると震えていた。ぶるぶると震えながら何かをつぶやいていた。リオラは耳をすませた。少年は小さな声でつぶやいていた。
「……いやだ……いやだ……」
リュウはその男の子をじっと見つめていた。
「……いやだ……いやだ……こんな風に生きていくのはもういやだ……」
男の子は無残に腫れあがった顔をあげた。そして言った。
「……そいつが僕をぶった……僕はそいつにぶたれたんだ……見てろよ、いつか、お前らなんかぶっとばしてやる……ぜったいに、お前らなんかより強くなってやるからな!」
リュウは男の子の方を見るとにやりと笑った。
「おい、おまえ、名前はなんていう?」
男の子はリュウを見上げると、毅然として言った。
「サムソン、僕の名前はサムソン」
「サムソン、てめえは強くなるぜ、おれが保証してやる。だが今日のところは、こいつの始末は俺に任せておけ」
そう言うと、リュウは縄で縛られて無様に転がっている男の方を振り向いた。
「そういうことだ。結局、てめえの言ってることは、嘘っぱちってことだ。世の中を分かったような気になって一丁前に説教垂れてやがったが、実は全然わかっちゃねえ。全部、自分らに都合よく解釈してるだけだ。結局、てめえは自分のことしか考えねえ糞親父どもとなんら変わらねえってことだ」
そう言うと、リュウはルークにもらった剣を抜いた。研ぎ澄まされたその剣は夜にも関わらず怪しく光を放った。
「ま、待て、おまえはさっきの野郎に俺を見張ってろと言われたんだろうが、おれを殺していいなんて言われてねえだろ」
「残念だったな。俺はあいつの手下でもなんでもねえ。それにあいつが、てめえみてえな豚野郎をこのまま野放しにするような野郎だったら、もう未練はねえ。ここで別れるまでだ」
リュウの声が冷たく響いた。
「まって、待ってくれ。俺にも家族がいるんだ。俺がいなくなったら、あいつら食っていけなくなる」男は必死になって、リュウに言った。
「そうか、なおさらてめえを生かす価値がねえことがよく分かったぜ。てめえなんかに育てられたら、子どもの方が可哀そうだ。それに親ってのはガキがいるから親なんじゃねえ、親に相応しい奴を親っていうんだ。それをよく考えながら地獄にいくんだな」
リュウはそう言うと男の首に剣をあて、太く浮き出た頸動脈を容赦なく切った。その途端、血が噴水のように男の首から噴き出した。男は縛られたまま、血を止めることもできず、叫び声をあげながら転げまわった。いつの間にか、子どもたちが並んで、その様子を真剣な目で見つめていた。それもわずかの間だった。いつか男は死んでいた。
「――おい、リオラ、おまえ俺を止めなかったな。いいのかよ」
リュウが一人離れて座っていたリオラに声を掛けた。
「どうせ止めたって、そいつを殺したでしょう。それに私もその人には死が相応しいと思ったし」
リュウはリオラの物言いに軽く笑った。
「お前はへんな野郎だな。だがこいつがこういう奴だとすると、レインハルトが向かった先も危ねえな。どうする、こいつらを連れて行ってみるか?」
「レインハルトなら平気だよ」
リオラは何にも心配することはないとばかりに軽く笑った。そして付け足すように言った。
「千人だろうが、万人だろうが、あの人を倒せる人なんかいない。あの人を倒せるのは神と……神に選ばれた人だけ……」