表で馬の嘶く声がした。そしてすぐにどすんと大きな音が響いた。
リュウとリオラは何事かと、すぐに表に飛び出した。そこには、だいぶ腹の肥えた騎士が地面に尻もちをついて目をぱちくりさせていた。どうやら騎士は落馬したようで、口取りをしていたと思われる少年がなんとか馬をなだめようと必死になって抑えていた。
その光景を見ていた連中は、騎士ともあろうものが無様に落馬したのを見て、失笑気味にひそひそと話をしていたが、その嘲りの声が聞こえたのか、騎士は急に立ち上がると、ようやく馬を落ち着かせたばかりの少年を大声で呼びつけた。そして、おどおどしながら騎士の前に立った少年に向かって怒鳴り声をあげた。
「貴様の腕が悪いから、馬が暴れてしまったではないか! あのように暴れては、いかにわしが馬の扱いに優れていても、なんともならんではないか。すべて、貴様のせいだぞ!」
少年はすぐに地面に伏すと、頭をこすりつけて憐みを乞うた。
「申し訳ありません、申し訳ありません。お許しください、お許しください」
「ならん、貴様には懲罰を与えねばならん。上着を脱げ!」
騎士はそう言うと馬の鞍から鞭を取り出し、両手でしごきながら少年の前に立った。
「どうぞ、お許しください。なにとぞ、お許しください」少年は泣き叫びながら訴え続けた。
「早く、上着を脱がんか。さらに罰を加えて欲しいのか!」
騎士がそういうと、少年は、お許しくださいと何度も叫びながらも慌てて上着を脱ぎ始めた。
少年が上半身裸になったとき、リュウとリオラは目を見張った。二の腕には▲の烙印がおされていたが驚くべきはその背中で、一面に鞭の痕が走り、しかもまだ生々しいものもあり血がじっとりと滲んでいた。
少年は憐みを乞い続けながら頭を両手で隠し、背中を剥き出しにして蹲った。それを見た騎士は満足そうに薄ら笑いを浮かべると、鞭を振り上げ少年の背中を打ち始めた。
絶叫が周囲に響き渡った。人間の声とは思えなかった。獣や鳥の叫び声のようであった。そして、叫び声と共に血と肉の破片があたりに飛び散った。騎士は狂ったように何度も何度も少年を鞭打った。そのたびに劈くような悲鳴があがり、聞く者の耳を震わせた。
既に十回以上、鞭打っていたが、騎士は一向に止める気配を見せなかった。もはや背中の皮は削がれ、血の海の中に肉と骨が覗いていた。少年の声は徐々に小さくなり、ついに頭を隠していた両手がだらりと落ちた。それなのに、騎士はやめるどこか、さらに鞭を振り上げて打たんとした。その手が不意に止まった。
「――いくら奴隷だろうが、やりすぎじゃねえのか。こいつ、死んでしまうぞ」
リュウが後ろから騎士の振り上げた手を掴んでいた。騎士は掴まれて身動きが取れず、頭だけ向くと猛り狂ったように叫び始めた。
「貴様なんの真似だ。わしを王の騎士と知っての無礼か! 手を放せ、放さんか!」
騎士は顔を真っ赤にさせてリュウの手を振りほどこうとしたが、リュウの手はびくりともしなかった。
「てめえみてえな糞野郎が王の騎士かよ――ったく、こんなやつらの仲間入りをするところだったとはな」リュウは蔑むように言うと、ようやくその手を離した。
「貴様、わしは王の騎士だぞ。貴様ごとき素浪人が対等に話せる相手と思ったか。この無礼者め、さっさとそこに跪かんか!」
騎士は下僕に命じるようにリュウに言った。だがリュウはその言葉を無視して、ぐたっと倒れた少年の方に歩み寄った。少年の背中は見るも無残な状態で、肉が削げて背骨が飛び出していたが、その背骨も何箇所か砕けていた。リュウは大丈夫かと肩を揺すったが、少年はもはや息をしておらず、そのまま地面に崩れ落ちた。
「貴様、わしのいうことが聞こえんのか! その奴隷のごとくにそこに這いつくばれと言っておるのだ!」
リュウは怒鳴り声をあげる騎士を睨みつけるようにして、立ち上がった。
「――おい、こいつはもう死んでるぜ」
「虫けらが何人死のうと知ったことではないわ。そんなことより、さきほどから王の騎士たるわしに向かって、なんたる無礼な口のききようじゃ。もう勘弁ならん、手打ちにしてくれるわ、そこに直れ!」
騎士はリュウに向かって声を張り上げると、腰から剣を抜いた。だがリュウはその場に突ったったまま、騎士を傲然と睨みつけていた。騎士はそれを見ると逆上したように声を荒らげた。
「おい貴様、なぜ、そこに跪かん!」
「――てめえが王の騎士だからなんだというんだ。キャンキャン吠えれば、俺が跪くとでも思ってんのか。ったく、こんな糞野郎の奴隷になったんじゃ、目もあてられねえな。孤児院に入った方がまだましってもんだ」
「――まさか貴様、孤児上がりか」
「ああ、そうだ」
リュウの言葉を聞いた途端、騎士の顔がさらに真っ赤になった。
「……貴様……薄汚い孤児上がりの癖に、このわしに楯突こうとは……許さん、絶対に、許さんぞ!」
「許さねえのはこっちの方だ。てめえみてえなカスをおめおめ生かしておくほど、俺は人が良くねえんでな――てめえ、ぶっ殺してやる!」リュウはそう言うと、剣を抜いた。
騎士はまさかリュウが本当に剣を抜くとは思わず狼狽えた。
「お、おまえ、分かっているのか、わしは王の騎士だぞ。このわしに向かって剣を抜けばどうなるか分かっておるのか」
「さあ、知らねえな。王の騎士だかなんだか知らねえが、その名前を言えば誰でもてめえに跪いて、大人しく殺されるとでも思ってたかよ。ふざけんな! てめえも剣を抜いてんだ。さあ、剣士らしく剣で勝負しようじゃねえか」
そう言われた騎士は思いもかけぬ展開にカチカチと歯が鳴り、剣を持つ手がぶるぶると震えた。
「けっ、震えてんのかよ。ようやく殺される気分がどんなもんか分かってきたようだな。だがもう遅え。てめえは奴隷とはいえ人を殺したんだ。その報いは受けなくちゃならねえ」
「……ど、奴隷の一人や二人、殺したところで、な、なにが悪いというのだ。誰でもやってることではないか」
「そうか。じゃ、そいつらは後で全員ぶっ殺してやる。だが、手始めに貴様からだ」
そう言って、リュウが剣を構えた時だった。
「リュウ、やめて!」
脇の方で見ていたリオラが叫んだ。だがリュウは身じろぎもせずに言い放った。
「リオラ、これだけはてめえの頼みでも聞けねえな。こいつは、殺されて当然のことをしたんだ。こいつが王の騎士だろうが、国王だろうが関係ねえ。俺は気に入らねえ野郎は誰であろうがぶっ殺す」
その言葉を言い終えた瞬間、リュウは剣を突き出した。その切っ先は的確に騎士の喉を突き刺していた。腹の肥えた騎士は未だに自分に起きた出来事が信じられないように目を大きく見開いていたが、口から血を吐くと、そのまま地面に倒れた。リュウはぺっと騎士の顔に唾を吐くと、剣を鞘に納めた。人だかりができていたが、辺りはしんと静まり返り、誰も口を開くものはいなかった。
だが騒ぎはそれで収まらなかった。人が大勢行きかう街の目抜き通りで起こった白昼の惨事に、騒ぎを聞きつけた警官が多数やってきて、すぐにリュウを取り囲んだ。
その中で隊長と思われる警官が一歩前に出て、「大人しくしろ。貴様を殺人の容疑で逮捕する」と叫んだ。
リュウはざっと十人はいる警官隊を見回すと不敵な笑みを浮かべて、再び剣を抜こうとした。
「リュウ、お願い。もうこれ以上はやめて!」リオラが再び叫んだ。
その声を聞いた警官の何人かがリオラの方を不審げに見やった。リュウはそれを見ると抜こうとした剣を収めて、ふっと息を吐いた。そして警官隊に向かって大声で言った。
「おい、てめえら、早くどこへと連れて行けよ――ところで、おい、そこの女。てめえ俺を誰かと勘違いしてんじゃねえか。ガキはさっさと家に帰るんだな」
そしてリュウは隊長の方に歩み寄ると腰の剣を無造作に差し出した。隊長は用心深く剣を受け取ると、部下に命じてリュウの両手を縛り上げ、取り囲むようにして連行していった。リオラはその後ろ姿を心配そうに眺めていたが、急に後ろを振り返り元来た道を走りだした。