「何しに来た」
底力のある声にもう一度どやし付けられて、仁右衛門は思わず顔を挙げた。場主は真黒な大きな巻煙草のようなものを口に銜えて青い煙をほがらかに吹いていた。そこからは気息づまるような不快な匂が彼れの鼻の奥をつんつん刺戟した。
「小作料の一文も納めないで、どの面下げて来臭った。来年からは魂を入れかえろ。そして辞儀の一つもする事を覚えてから出直すなら出直して来い。馬鹿」
そして部屋をゆするような高笑が聞こえた。仁右衛門が自分でも分らない事を寝言のようにいうのを、始めの間は聞き直したり、補ったりしていたが、やがて場主は堪忍袋を切らしたという風にこう怒鳴ったのだ。仁右衛門は高笑いの一とくぎりごとに、たたかれるように頭をすくめていたが、辞儀もせずに夢中で立上った。彼れの顔は部屋の暑さのためと、のぼせ上ったために湯気を出さんばかり赤くなっていた。
仁右衛門はすっかりに打摧かれて自分の小さな小屋に帰った。彼れには農場の空の上までも地主の頑丈そうな大きな手が広がっているように思えた。雪を含んだ雲は気息苦しいまでに彼れの頭を押えつけた。「馬鹿」その声は動ともすると彼れの耳の中で怒鳴られた。何んという暮しの違いだ。何んという人間の違いだ。親方が人間なら俺れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない。彼れはそう思った。そして唯呆れて黙って考えこんでしまった。
粗朶がぶしぶしと燻ぶるその向座には、妻が襤褸につつまれて、髪をぼうぼうと乱したまま、愚かな眼と口とを節孔のように開け放してぼんやり坐っていた。しんしんと雪はとめ度なく降り出して来た。妻の膝の上には赤坊もいなかった。
引用:『カインの末裔』(著:有島武郎)
題名にある「カイン」という名は聖書がその起源である。
カインは弟であるアベルを殺し、神に対して嘘をついた最初の人間であり、その罪により、荒野に追放されたものであることは、ご承知のことと思う。
有島武郎は、まさに神に追放されたカインの物語をモチーフにして、この作品を書いたと思う。主人公である仁右衛門が登場するシーン、村を追い出されて去るシーンなどは、その寂寥たる情景、人間というものの生の姿をまざまざと描いている。
仁右衛門という男も、まさにカインを象徴するように、粗暴で、無知で、暴力的で、協調性のかけらもない人間として描かれている。そんな仁右衛門は、案の定、次第に周囲から疎まれ、仲間外れにされ、孤立していく。
だが僕は、仁右衛門という男に対して、やっかいで面倒なやつだなとは思うが、そこまで嫌悪感を感じない。逆にその力強い生の力を眩しくさえ感じる。
なぜなら、人間一皮剥けば、程度の差はあれ、誰だって仁右衛門と同じゃないかと思っているからだ。強欲で、見栄っ張りで、好色で、自分勝手、生きるためには他人を蹴落としてでも、他人を喰らってでも生きる。それが人間というものの本質だと思っているからだ。
今、僕たちは、生きるということについて、それほど深刻に考えない。考えなくても生きていける。だが、それは法や社会システムが整備されいるからだ。人権やら道徳がきちんと守られる日本という国に住んでいるからだ。
だが一歩外に出れば、現代であっても、必死になって生きざるをえない、そうであっても生きることができない国がまだまだある。
そんなことを思うときに、僕が一番、心に残った文章がこれだ。
この場面は、村八分の状態に陥った仁右衛門が、一か八か場主のもとに直談判しにいったときのものである。
誰に対しても臆することなく、好き放題振舞ってきた仁右衛門が、頭をあげることもできず、罵声を甘んじて受けている。そして、この言葉。
何んという人間の違いだ。親方が人間なら俺れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない
あの傲岸不遜な仁右衛門が思わず語るこの言葉こそ、この世界のリアルな現実と不条理さを余すことなく表現している。親方を神と捉えてもいい、自然と捉えてもいい、社会そのものと捉えてもいい、それは読む人がそれぞれ考えればいいことだ。
だがこの言葉は、人間という存在がいかにちっぽけで、巨大な力が支配する不条理な世界の中で生きなければならないかを読む者の心にまさに焼き印のように刻み付ける。
この世界に生きる人間は全てカインの末裔だと思う。
僕たちはカインの末裔として、この不公平で不条理な世界に抗いながら、必死に生きていかなければならないのだろう。