レインハルトたちはマッテオの弟子のレビの案内で、リュウがいたという精神病院に向かって歩いていた。場所は聞いたのだが、マッテオは弟子に案内させるからと言って聞かず、レビをつけてくれたのだった。
道すがら、レインハルトは隣を歩くレビに声をかけた。
「レビよ。つかぬことを聞くが、このウルクでの聖堂会の評判はどうだ?」
レビは肩をすくめるようにして答えた。
「聖堂会はここでも大人気です。誰も彼も狂ったように聖堂会、聖堂会と騒ぎ立てています。最近では教会にいくものよりも聖堂会の集まりに行くものの方が多いくらいで、師匠のマッテオなどは、あってはならんことだと毎日憤慨しています」
「お前は聖堂会の集まりというものに出たことはあるのか?」
「いえ、私は出たことはありませんが、弟子のひとりのブラムが一度、興味本位に行ってみたそうです」
「ほお、それで彼らはどんなことを説いているのかね」
「ブラムが言うには、聖堂会こそが神の手足であり、聖堂会の事業に率先して協力することが神の御心に沿うものだと、そんなことを言っているようです」
「なるほど……」
レインハルトは聖堂会によって建設中の孤児院や聖堂会によって運営されている施設のことを思い起こした。
「他に、何か聖堂会のことで気になる噂を聞いたことがないか」
気を取り直すようにレインハルトが再び尋ねると、レビはしばらく首を傾げていたが、そうだとばかりに手を打って、「そういえば、マナハイムの知事のジュダという人が今度、司法大臣になることが決まったそうです……なんでもジュダという人は聖堂会のマスターという噂です」と少し声を落として言った。
ジュダ……レインハルトの脳裏にあの男の顔が浮かんできた。完璧な美貌を持ち、奸智に長けた危険な男。レインハルトの顔が険しくなった。いよいよ、あの男が国の表舞台にやってくる。
「ここがあなたがたがお探しの病院です」
レビはある一軒の建物の前に立ち止まるって指を指した。レインハルトはレビに礼を言うと、帰りは私たちだけで帰れるからとレビを先に帰した。そして改めてその施設を見たが、一見普通の病院で特段変わった様子もなく、患者や看護婦たちが笑いながら歩いていた。レインハルトはリュウの方を見て尋ねた。
「リュウよ、ここが、お前が入院していたところらしい。預言者エトはここでお前を引き取って、しばらくの間、お前に学問を教えたとのことだったが、何か覚えていることはないか」
リュウはしばらく、その病院を眺めていたが頭を振った。
「いや、何にも覚えちゃいねえ」
「そうか――まあ、いい。とにかく入ってみよう」
レインハルトはそう言うと、リュウとリオラを促して建物の中に入っていった。
レインハルトたちはこの病院の院長室に通された。しばらくすると院長と思しき初老の男が、慌てたように部屋に入ってきた。
「お待たせして大変申し訳ありませんでした。まさかこんなところにあなたのような方がいらっしゃるとは思いもしなかったものですから」
レインハルトは突然の来訪の非礼を詫び、少し聞きたいことがあって尋ねたのだと伝えた。
「――ほう、ではこの方が以前この病院にいらっしゃったという訳ですな」
院長はそういって、リュウをしげしげと眺めていたが、急に思い出したように手を打った。
「……もしかして、きみはあの時の!」
「何か覚えていることがあるのか」
レインハルトが身を乗り出した。
「いや、私がこの病院に来てすぐのことだったので記憶に残っているのですが、ウルクの町はずれの館で殺人事件が起こったのですよ。その時、一人だけ生き残った少年がいたのですが、警察はその少年をここに運んできたのです。その少年は怖いものを見たショックのためなのか記憶を全て失っていましてな――そういえば君はあの時の少年によく似ている」
そう言って、院長はウルクの町はずれで起こった殺人事件のことを事細かにレインハルトたちに話し始めた。凄惨な現場の状況が語られると、リオラは思わず顔を背け、レインハルトの手を握り締めた。
「……それで、その少年は事件のことは何も覚えていなかったのですが、ただ一言、リバイアサンとだけ何度も何度も繰り返していたんです。ここに来てからも毎夜、毎夜、何かにうなされるように飛び起きて、その時は手が付けられないくらいに暴れて、それはもう大変でした。そして、一年か二年たった頃でしたか、一人の老人がやってきて、その少年を引き取っていきました――おお、そうだ。カルテを見れば誰が引き取っていったかはっきりするでしょう」
そう言って、院長は看護婦を呼んでカルテを持ってこさせた。病院長はそれを受け取ると、ペラペラとページをめくっていたが、これだとレインハルトたちの前にカルテを広げた。そこにはこの病院にいた少年の過去が書かれていた。
一切の記憶をなくし、言葉を忘れた少年。夜な夜な悪夢に襲われ、悲鳴をあげて飛び起きると狂ったように暴れ出し、終いには部屋の隅で縮こまってぶるぶると震え、そして、真っ青な顔でリバイアサンと繰り返しつぶやく。身元を証明するものは何もなかったが、ただ一つ、背中に拳大の火傷の跡があったという。
その記述を見たリオラは、はっとしてリュウを見た。リュウの背中にも同じような火傷の跡があった。リュウをずっと介抱していたリオラは、そのことをよく覚えていた。
リュウはそのカルテをじっと見つめていた。記憶にない自分の過去がそこに少しだけあった。辛い過去であった。だが、それはまごうことなき自分の姿であった。リュウは自分の過去を刻み込むように、カルテの一行一行を食い入るように見つめていた。
リュウを引き取ったのは、やはりエトだった。エトは知り合いの子だと言って、リュウを引き取っていったらしい。レインハルトはそのことよりも、リュウをここに連れてきた男の名前に目を向けた。
「院長、このジェームスという男は何者ですか」
レインハルトがカルテを指さして院長に尋ねた。院長はその名を見て、しばらく考えていたが思い出したように手を叩いた。
「ああそうだ! 確かにジェームスだった。彼は警察官です。彼が少年をここに連れてきたのです」
「そのジェームスという男は今でも生きていますか」
「ええ、ジェームスはあの事件をずっと追っていたのですが、結局、犯人は捕まらず、ジェームスも退官してしまいましたが、いつだか市場で会ったことがあります。まだ元気そうでした」
レインハルトはジェームスの家がどこにあるか知らないかと院長に尋ねたが、運よく脇に立っていた看護婦がジェームスの家を知っていた。
レインハルトは礼を言うと席を立った。それを見たリュウとリオラも席を立ったが、そのとき、そこにいた看護婦があのと声をかけてきた。そして、リュウの顔をまじまじと見ると、
「私、昔、あなたのお世話をしたことがあります」
そう言って、リュウの手を握った。リュウはどうしていいか分からず、その看護婦の顔をみつめたが、その看護婦はうっすらと涙を浮かべて、こう言った。
「あなたが部屋の隅で震えていたとき、よく私はあなたの背中をさすってあげました。ある夜のことでした。いつものように悪夢を見たのでしょう。あなたは部屋の隅で震えていました。それを見た私は毛布であなたをすっぽりと覆って、ずっと隣であなたをさすっていたんです。するとあなたの震えが次第に収まり、疲れたように眠り始めました。その時、あなたは独り言のようにつぶやいたんです、メキドと――わたしにはこれがどういう意味をもつのか分かりませんでしたし、小さな声だったので空耳かと思って、記録には残しませんでした。でも今日、立派に成長したあなたを見て、どうしてもこの言葉をあなたに伝えたいのです――本当に良かった。あなたがこんなに立派に成長して、本当に良かった」
そう言って看護婦はリュウを抱きしめた。
暖かかった。とても暖かかった。遠い昔、確かにこんな風に抱きしめられたことがあったような気がした。寒さに震え、孤独に飲み込まれそうになると誰かが自分をさすって、ずっと抱きしめてくれた気がした。リュウは抱きしめられながら、我知らず言っていた。ありがとうと。