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【聖書世界をモチーフにしたダークファンタジー小説】『リバイアサン』(四十五) ジュダとアイン

 ジュダは王宮の中を歩いていた。
 このエリアは、王家のプライベートな空間なのだが、ジュダはそんなことを全く気にすることもなく優雅に歩いていた。女官たちはジュダの姿を見ると脇に下がり深々と頭を下げたが、ジュダが通り過ぎるとその美しさに魅入られたようにその後姿をいつまでも見つめていた。ジュダは中庭に出ると、そこに立っていた執事に声を掛けた。

「アイン皇子は、いつものところか」

 執事は突然のことに慌てたが、それでも礼を失せぬように頭を下げ、「はい、少し前に入っていかれました」と答えた。

 ジュダは、その言葉を聞くと、あとはもう無用とばかりに鼻歌を口ずさみながら、奥の方に歩きだそうとした。それを見た執事は、「あの、お許しがなくては……」とおずおずと言ったが、ジュダは、もはや執事の存在など忘れて果てているかのように悠揚に歩み去った。

 しばらく歩くと、まるで動物園のような檻が目の前に現れた。だいぶ大きな檻と見えて、草木が生い茂り、奥を見通すことはできなかった。だが、ジュダは恐れることなく正面の鉄扉を開くと、そのままその中に入っていった。

 そこは、アインが可愛がっている虎の住処であった。少年時代、アインの前に屈服した虎は、そのままアインに飼われていたのだった。アインは外出するときはよくこの虎を連れて出向いたが、虎がまるで近衛兵のようにアインの側を離れず、その命に完全に服している姿をみたものは、さてもアイン皇子、神の如き皇子であらせられると感嘆せざるものはいなかった。

 アインは日々の日課である餌やりに来ていたのであった。面白いことに、この虎はアイン以外の者に対してはいまだ獰猛で、誰一人手なずけることができるものはいなかった。前には下僕に餌やりを命じたこともあったが、運悪く虎に出くわすとことごとく食い殺されてしまうので、さすがのアインも困り果て、自身が餌をやるようになったのであった。

「エルよ、しかしお前はよく食う奴だな。そんなに食っては、いつか象のごとくになってしまうぞ」

 アインはそこに据えられた椅子に座りながら、牛の肉を貪り食う虎を呆れたように眺めていた。たしかにアインの言う通り、エルと名付けられた虎はこの六年でさらに大きくなり、今では水牛をはるかに超える大きさにまでなっていた。

 突然、肉にかぶりついていた虎がある一角を睨みつけて唸り声をあげた。アインも何事かと思って、その方を向いたが、いつの間にいたのか、そこにはジュダが笑みを浮かべて立っていたのだった。

「……ジュダか、誰の許しを得てここに入ってきた」

「あなた様にお会いするのに、あなた様以外の誰の許しを得たらよいというのでしょう」

 ジュダはアインの辛辣な問いにもまったく臆することなくにこやかに答えた。アインは、そんなジュダの姿を忌々しそうに眺めていたが、ある種の興味も湧いたのか、近くに来るように命じた。

「それで――王をたぶらかし、国政を牛耳っている我が国の大立者がいったい私に何の用があるというのだ」アインはそう言うと鋭い眼でジュダを見つめた。

「私など光輝くあなた様の前では陽炎の如きものにすぎません」

「無駄口を叩くな。私にはお前の十八番の阿諛追従もその仮面のような汚らわしい微笑も通じんぞ」

 ジュダはその言葉を聞くと笑いが込み上げてきたのか、ふふと笑った。

「あなた様のその聡明な心、神をも凌ぐ美貌、まさに亡き母上とそっくりですな」

 アインはジュダの言葉に少し戸惑いながら、それでも威厳を崩さずに言った。

「そういえば母上はマナハイムの出で、お前の亡くなった妻の姉でもあったな――子ども時代はよく遊んだものだと、いつもお前のことをしゃべっていた」

「あなた様の母君は、まさに美の女神でした。あのようにお美しい方は、もうこの世に現れることはありませんでしょう」

 ジュダは天に向かって深く頭を下げた。

「……わざわざ、そんなことを言いにここに来たのか」

「とんでもございません。とても人には話すことができない我が国の大事が持ち上がりまして、もはやあなた様以外にご相談するものはないと思い、不躾ながら参上した次第です」 ジュダは一歩前に進み、声を落として言った。

「いったい、何事が起きったというのだ」

「あなた様もよくご存じのことと思いますが、いま、我が国の国境付近にイラル軍が攻め寄せております」

「ああ、知っている。それで、無能なそなたらは奴らを追い払うこともできず、聖騎士レインハルトを呼び出し、なんとかしてくれと泣いて頼み込んだそうではないか」

 ジュダはアインの悪口を気にすることもなく、さらに一歩近づいた。

「そのことなのです。実は、イラルが我が国に押し寄せたのにはあるたくらみがあったことが分かったのです」

 ジュダの言葉にアインの目が光った。

「たくらみだと……」

「はい、言葉にするのも憚られますが、なんとこのたびのこと、マナセ国王が裏で糸を引いていたのでございます」

「……父上がだと……証拠はあるのか」

「実は、イラルの王宮に内偵させている我が国の密偵からの情報ですが、そのようなことをイラルのダナエ女王が酒宴の際にうっかりと口を滑らしたというのです」

 アインは、何かを考えるように黙ってその言葉を聞いていたが、突然、立ち上がると、脇でその様子をじっと伺っていた虎に向かって命じた。

「エル、こやつを食い殺せ! こやつは、我が国を滅ぼす奸物だ」

 エルはその言葉に瞬時に反応し、ジュダに飛び掛からんとした。だが、エルはジュダの目を見ると、そのまま金縛りにあったように動きを止めてしまった。するとジュダは恐れることもなく、エルに近づいていった。そしてジュダは巨大な虎の前に立つと、にこやかな微笑を浮かべてその顔を見た。その微笑みは神の如くに神々しいものであったが、エルにはその中にある形容しがたい異常な力を感じとったようであった。それがエルの全身を凍り付かせていた。巨大な虎は、まるで始めてアインと会った時と同じように恐怖で全身が震えていた。そしてついに隷属を誓うかのように、その身をかがめて、ジュダの前に平伏したのだった。

 

ひれ伏す巨大な虎

 

 ジュダは目の前に蹲る虎を見て微笑んだ。だがアインの方を向くと大仰に頭を下げ、うやうやしく言った。

「これがアイン皇子がことのほかお気に召しているエルと申す虎でしたか。拝察するに、あなた様のおそばにいるだけであなた様の薫風に染まり、その魂も高潔になると見えます。いや、このジュダ、ほとほと感服いたしました」

 アインはジュダの様子をじっと見つめていたが、再び椅子に座ると探るように問うた。

「……いったい、おまえの望みは何だ」

 ジュダはアインの言葉を聞くと、ゆっくりと顔を上げた。アインはその顔をみた瞬間、驚きのあまり、目を大きく見開き、全身が固まったように硬直した。それは、今まで見てきたジュダの顔とは全く異質の顔であった。それは欺瞞と侮りが垣間見える堕天使のような顔ではなく、心中から溢れ出る喜びを隠しきれぬような、まるで赤子を見る母親の如き笑顔であった。

「――アイン皇子、私が望むことはただ一つです。それはあなたと同じです。私はそのためにこれまで力を尽くしてきました。そしてこれからはあなたを王と仰いで、その実現を完成させたいと思っているのです」

 その声もまた、今までのジュダの声とは異なり、真摯な思いに満ち溢れていた。

「……お前はいったい何を言っている……」ジュダの意外な言葉にアインの方が混乱していた。

「……私と同じ思いだと……おまえは、私が何を望んでいるのか知っているのか」

 だがジュダは、そんなアインの心も全て見通しているかのように優しく微笑んだ。

「もちろんです。私は生まれた時からずっとあなたを見てきました。あなたが何を考え、何を思っているか我が心のうちのように存じております。それだけではございません。私は、あなたの偉大な歩みを阻害するものを悉く排除してきました。あなたが、ヨセウス先王の近侍として仕えることになった時も、あなたの身に何か危険が迫っていないか、あなたを脅かすものがいないか、いつも目を光らせていたのです。しかし英邁なあなたは、もはや私どもの手すら必要とされず、あのレインハルトに国を任せようなどとした愚かなヨセウス国王を自らの手で亡き者にあそばされました。そして偉大な理想のために、父君、いやあの愚鈍なマナセに取って代わらんとしております。アイン皇子、わたしは全てを承知しております。わたしはあなたの味方なのです。どうか全て、私にお任せください。私はあなたをして、この世界に君臨する新たな絶対者として立たせて見せます」

 アインは、ジュダの言葉を信じられぬ思いで聞いていた。目の前にいる男は、アインがずっと内にひそめ、いまだ誰にも語ったことがない自分の思いを知り、マナセにとって代わらんとしていることも承知し、いわんや、ヨセウス国王を殺害したことも分かっているという。

 それは到底聞き逃すことはできるものではなかった。
 これまでずっと自分の周りにはジュダの目があったというのか、ヨセウスと二人きりになった最後のときも誰かに見られていたというのか。あの聖堂会というものたちが、王宮の中にまで手のものを張り巡らせ、至る所に目を光らせているというのは事実であったというのか。もしそうだとしたら、到底、このままにはしておけなかった。ジュダを生かしておくことはできなかった。だが、そういう理性的な思いとは別に、なぜかは良く分からぬが、妙な親近感が心の奥底から湧いてくるのを感じてもいた。

 自分の望み。誰にも話したことがない、いや誰にも話すことができぬ恐るべき野望。それをこのジュダは知っているという。そして、自分も同じ望みを持っていると語る。それは真実であろうか。愚物ばかりの政堂において、圧倒的に抜きんでた才を持つ男。その全身から狂おしいばかりの香りを漂わせ、目を背けんとしてもなぜか惹きつけられてしまう男。自分の前に立ちはだかる最も危険な人物として見ていた男。その男が、実は味方だと言う。自分を国王に頂き、忠誠を誓うと言う。

 アインはしばらく黙ってジュダを見ていたが、ついに何かを決心したかのように声を発した。

「ジュダよ、お前が私の味方だというなら、それを私に証明しろ」

 ジュダは、その言葉を聞くとうれしそうにアインの前に跪き、左手を大地に置いた。そして、腰から短刀を引き抜いて薬指の上に置くと、無造作に下ろした。なんの音もしなかったが、切り離された薬指は大地に転がっていた。ジュダは痛みも感じていないかのように微笑みを絶やさず、切り落とされた指をハンカチで包むと、それをアインに差し出した。何も言わず、その様子を見つめていたアインは、ジュダからそれを受け取ると、それを胸の奥に閉まった。そして、目の前に膝まづくジュダを見ると、重々しく言った。

「ジュダよ、お前に一切を任せる。時至らば、あの愚鈍な王を引きずり下ろせ。そしてお前が言うがごとく、わたしをこの世界に君臨する新たな絶対者として立たせるのだ」

 その言葉に、ジュダは深く頭を下げた。

 

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