ダンの街を包囲するイラル軍の幕屋の中で、全軍を率いるタルタンが椅子に寄りかかりながら一人の偉丈夫を引見していた。その偉丈夫は二メートル近い大男で、筋骨たくましく精悍な顔立ちをして、タルタンの前に傲然と立っていた。
「イロンシッドよ、ウルクが寄こしてきた報告によると、レインハルトは従者を一人連れて、こちらに向かっているそうだ。おそらく一両日中にもこの地に現れることになろう。我が軍の目的はレインハルトを抹殺することだが、二万の兵をもって、たった一人をなぶり殺しにするなど恥知らずもいいところだ。よってイラル一の勇者であるお前にレインハルトとの決闘を命じたい。あのレインハルトを討ち取れば、そなたの名は天下に轟くことになろう。どうだ、イロンシッドよ、やってみぬか」
だが、目の前の男は黙ってタルタンの顔を見つめるだけだった。その様子を見たタルタンはイロンシッドに不安があると感じたのか、言葉を付け足した。
「心配するな。もしお前が危うくなったら、マルデュクが影から助太刀をすることになっている。だから大船に乗った気分で戦うがいい」そう言うと、タルタンはマルデュクに目をやり、にやりと笑った。
それまで黙って話を聞いていたイロンシッドだったが、その言葉を聞いた途端、我慢ができなくなったのか突然声をあげた。
「女王の命は私も承知している。だが、私にレインハルトとの決闘を命じるのであれば余計な手助けは一切無用に願いたい。そんなことをせずとも必ずや我が手でレインハルトを討ち取ってご覧に入れる」イロンシッドはそう言うと、タルタンたちを睨みつけた。
タルタンはそんなイロンシッドを閉口したように眺めていたが、
「……まあ、いい。肝心なのは、レインハルトを確実に仕留めることだ。お前が一人でレインハルトを討ち果たすというのであれば、それは我がイラルにとって大いに名誉なこと――だがいいな、くれぐれもイラルの名誉を汚すことのないようにな」
イロンシッドは、タルタンの言葉が終わるか終わらぬうちに踵を返すと、さっさと幕屋を後にした。タルタンはそんなイロンシッドを苦々しく見つめていたが、まあいいとばかりに、マルデュクに声を掛けた。
「マルデュクよ、どう思う。イロンシッドはあのレインハルトに勝てるだろうか」
マルデュクは、恭しくタルタンに頭を下げると猫のように傍にすり寄った。
「イロンシッドはイラル一の勇者、そう簡単に負けることはありますまい。十分、見せ場は作ってくれるものと存じます」
「見せ場か……イロンシッドがその見せ場をつくっている隙に、そなたが例のもので彼奴を仕留めるというのだな」
「御意」
マルデュクの返事を聞くと、タルタンはようやく満足そうに笑った。
「よかろう――だが、あのイロンシッドに聖騎士レインハルトを倒した威名を与えるのは少し癪に障らぬでもないがな」
「何をおっしゃいます。レインハルトを討伐した軍の総帥はタルタン様でございます。誰がレインハルトを倒したなどというのは些細な事。後でどうとでもできます。一兵士の名前など歴史に残ることはありません。すべての栄光はあなたに授けられるのでございます。さすれば、女王の貴方様への信頼も一層高まろうというものです」
マルデュクの言葉はタルタンの心に女王のことを思いださせた。深く艶やかな黒髪、絹のような白い肌、見せつけるかのように露わに晒された豊満な肉体、男の心を狂わせる乳香の香り、そして一度見たら永遠に忘れることのできないであろう淫靡な微笑みを持った女王ダナエ、この世で最も美しい女、全身から匂い立つような女の性を発散させ周囲の男たちを狂わせてきたあの淫婦。タルタンの中にはずっとダナエに対する狂おしいばかりの欲望が溜まっていた。そしてダナエはタルタンの想いを知りつつ、いつもその男心を弄んできた。レインハルト討伐に成功したら、女王はきっとタルタンが求めているものを与えてくれるだろう。それを想像するだけでタルタンの全身は沸騰するように滾った。
あの女をこれでもかというほど嬲ってやる。精が尽き果てるまで可愛がってやる。あの女がもう俺以外の男とは寝られぬように狂わせてやる。タルタンの心は既にこの幕屋にはなく、イラルの宮殿の上、ダナエの褥の上に飛んでいた。
ダンの住民は、イラルの攻撃は今日か明日かと毎日生きた心地もせず、恐れ慄きながらその日その日を送っていた。この間、頼みの首都ウルクからは早馬がたった一騎来たばかりで、しかもその口上たるや、「きっと神が助けてくださる。ひたすらじっと城を出ずに守りを固めよ」というばかりとあっては、ダンの住民が如何に心もとなかったか伺い知れよう。
だが、その言葉はいつしか、ダンの住民の心に聖騎士レインハルトのことを呼び起こさせていた。この苦境を救ってくれるのは、聖騎士レインハルトしかいない。それは、あくまでも期待以上のものではなかったが、イラルの大軍に囲まれたダンの住民には、それしか希望がなかった。そしてその希望はいつしか、きっと聖騎士レインハルトがダンの街を救いに来るに違いないという確信へと変わっていた。
そういうこともあって、ダンの街の見張りは、今日こそレインハルトが現れるのではないかと首を長くしてウルクに続く街道を眺めていたが、その街道をイラル軍の斥候と思わしき一団が息せき切ったように駆けてくるのが見えた。見張りは、何事かとその様子をじっと眺めていたが、そのはるか後方に、斥候の一団とは異なる人影がこちらに向かってくるのがうっすらと見えた。見張りはもしやと思い、慌てて遠眼鏡でその方を覗いたが、すぐにその男の体はぶるぶると震えだした。そして遠眼鏡を放り投げると、我を忘れたように下にいた人々に向かって大声で叫びだした。
「ダンの民よ、わたしたちは救われた! レインハルト様が来て下さった! 聖騎士レインハルト様が、私たちをあのイラルの手から救いださんと、ここにいらっしゃったぞ!」
その声は、ダンの人々の上に響き渡った。ダンの街は歓声に包まれた。その声は地をどよもし、天を焦がさんばかりに轟いた。
ダンの街から聞こえる歓声を聞いたタルタンは斥候の報告を聞くまでなく、レインハルトがここに現れたことを知った。タルタンは部下を呼ぶと大声で指示した。
「どうやら、レインハルトが現れたようだ。いまからそなたはレインハルトのもとに向かえ、そして、私が会いたいと申していると伝えるのだ」
命を受けた部下は足早に幕屋を出ていこうとしたが、タルタンが待てと呼び止めた。
「いいか、手を出す必要はない。兵たちにもそう伝えろ。来賓を招くが如くに、ここに連れてくるのだ」
部下はタルタンに一礼すると、そのまま馬に乗り、街道の方に駆けていった。
それを見送るタルタンの顔には、ようやくこの日が来たかという喜びが満ち溢れていた。こうして、聖騎士レインハルトは不思議なことに味方からも敵からも喜びをもって迎えられたのであった。