急に目の前が開け、小さな小屋が見えてきた。カーテンは閉められていたが、中で明かりが灯されているのがカーテン越しに分かった。レインハルトはゆっくりと小屋に近づき、扉を開けた。そして何の恐れもなく小屋の中に入っていった。
部屋の中には年老いた老婆とちょび髭を生やした執事のような男と数人の兵士が立っていた。
「ようこそ、いらっしゃいました。レインハルト様」ちょび髭を生やした男は、いかにも芝居がかったようにレインハルトに声をかけた。レインハルトはその男を覚えていた。その男はジュダの執事、アモンであった。
「……お前か……リオラはどこだ。お前たちの言う通り私は一人でここに来たぞ。さあ、リオラを返してもらおう」レインハルトが言った。
「さすが、イラルの大軍勢をあっさりと葬り去った偉大な聖騎士。その心胆には恐れ入るばかりです。さしずめ、私などはあなたの前では蟷螂の斧のごときものですな」
そう言うアモンであったが、その言葉とは裏腹にアモンの顔は楽しくてならないというように笑みがこぼれていた。
「戯言はたくさんだ。お前とこれ以上話すつもりはない。さあ、リオラを帰せ。さもなくば」
「おお、怖い! ですが、私を殺せば、リオラ様もただではすみませんぞ。残念ながらリオラ様は既に別な場所に移しておりますからな。荒くれものたちのこと故、散々、嬲ったあげくに見るも無残な死を与えることでしょうな」アモンはそう言うとにやりと笑った。
「お前たちの望みは私であろう。リオラは関係ないはずだ」
「ええ、もちろん、私どもの望みはあなた様です。あなた様が私どものいうとおりになすってくれれば、リオラ様は怪我一つなく、無事にマッテオの家にお届けいたします」
「……何をせよと申すのか」レインハルトが静かに言った。
「死んでほしいのです」アモンは歌を歌うように軽やかに言った。
「それもただ死んでもらっては困ります。あなたには神の名を語ったペテン師として、惨めに死んで欲しいのです――いやいや、あなたが神によって選ばれた真の聖騎士であることは重々承知しておりますよ。ですがあなたは今や神すら凌ぐ声望を得ておられる。これは大変深刻なことだと思いませんか。人は神にこそ仕えるべきであるのに民衆はあなたを神と称える始末だ。それは国を支える方々にとって由々しき問題なのです」
アモンは自身が仕えるあのジュダのように俳優気取りでしゃべり続けた。
「だから、あなたには大変申し訳ないのですが、神のために命を捨てて欲しいのです。いや、お怒りはもっともです。ですがこれは全て神のためなのです。神の栄光のためなのです。もちろん、あなたに嘘を付けなどとそんなことまで頼む気はありません。何も言わず、ひたすら黙って、掲げられた罪状を背負って死んでもらうだけでいいのです……ただ、罪状が罪状ですからな。この国の法では背教の罪をなしたものは磔の上、鋸の刑にすると決まっておりますからな――いやはや、なんと無慈悲な罰でしょう。これはもう早急に改正せねばなりませぬな。おお、すいません、余計なことをいいました。まあ、そういうことでございますので、やむをえません。なんとかそれも堪えていただきたいのです。そうしていただければ、リオラ様は開放してさしあげます。いかがですかな」
レインハルトは、アモンの言葉をひたすら黙って聞いていたが、アモンの言葉が終わると静かに口を開いた。
「いいだろう」
それを聞いたアモンは、ほおっと喜びの声をあげた。
「そうですか! いや、めでたい、誠にめでたい。なんと感謝してよいやら。名も言えぬ方々もさぞお喜びでしょう。その方々に変わり、篤く御礼申し上げます」
「だが、よく聞け」レインハルトは、アモンの言葉を制した。
「もし、約定を違えたら、神はお前たちを絶対に許しはしないだろう。お前たちは、一人残らず、神の怒りを浴びて地獄に送り込まれるだろう。そして名も言えぬ方々とやら、いやお前の主人のジュダに言っておけ。神の御心は測り知れない。お前たちの策謀が成功したなどとはゆめゆめ考えぬことだ。神はお前たちの不実をよくご存じでいられる。お前たちの破滅のときは迫っているのだ。それを忘れるなとな」
「おお、神に背くものには大いなる災厄が降りかからんことを! あなたの御言葉確かに、名も言えぬ方々にお伝えしておきます」
アモンはそう言って、頭を下げた。
こうして、レインハルトはその場にいた兵士に縄を掛けられ、顔には麻袋を掛けられ、闇夜に紛れて、ウルクに連行されたのだった。
リュウはレインハルトと別れた後、街道沿いをひたすら探し回っていた。人がいれば声をかけ、家があればドアを叩き、リオラらしき人を見なかったかと尋ねまわった。だがリオラの消息は杳としてしれなかった。ずっと歩き続け、いつの間にかシオンから十キロ以上も来てしまったことに気づいたリュウは、さすがにこんなに遠くまでリオラが来たとも思えず、既にリオラが戻っていることに望みをかけウルクへと引き返すことにした。
既に日はとっぷりと暮れていたが、空には月が浮かび、あたりをほんのりと照らしていた。周囲は静寂に包まれ、鳥や虫たちも今は静かに寝入っていたようだったが、道を歩くリュウの心は、鳥や虫たちの如くには穏やかではなかった。
リュウはレインハルトの心中を思うと、なんともやるせなかった。レインハルトがリオラのことを娘のように思い、心から愛していることを知っていたし、その出会いに不思議な縁があることも聞いていたからであった。だがそればかりではなかった。何か別な感情がリュウの中にあった。リュウはその感情に戸惑っていた。こんな思いを抱いたことはかつてなかった。強いて言うなら、マナハイムで死んだサラを思う気持ちに似ていた。
リオラは誰に対しても優しくて明るかった。リオラを知ればどんな人もリオラを好きになった。マッテオも、マッテオの弟子たちも、周りの店の人たちも、みんなリオラに癒されていた。
リュウに対してもリオラは優しかった。リュウはもともと口が悪く、感情を表に出すのが苦手で、リオラに対しても特別な態度をとることはなかった。しかしどんなにリュウがつっけんどんな態度を見せてもリオラは気にすることなく気軽に話しかけてくれた。
リュウはレインハルトとともに過ごす中で多くのことを学んだが、リオラと一緒にいることで学んだことも少なくなかった。そして何よりも、リュウはリオラと一緒にいることが心地よかった。この先、レインハルトとリオラとずっと一緒に暮らしていっても良いんじゃないかとさえ思い始めていた。そのリオラがいなくなった。リオラがいなくなって、初めて自分がどれだけリオラに癒されていたかを知った。
夜も深更を過ぎた頃、リュウはようやくウルクの街に入り、マッテオの店の前に立った。中はまだ灯りがついていた。リュウは緊張した。扉を開けた時に、リオラがいて欲しい。リオラに笑顔で迎えてくれて欲しい。心底からそう思った。
だがリュウの期待は裏切られた。扉の向こうにいたのはマッテオだけだった。しかも、あの巨漢のマッテオが幼児のように小さくなって頭を抱えていた。
「……リオラはまだ見つからないのか」リュウはマッテオに声を掛けた。
マッテオはその声でようやくリュウが帰ってきたことに気づき、頭を上げた。リュウはマッテオの顔を見てびっくりした。その顔は泥と血にまみれ、その目は真っ赤に充血していた。
「……いったい、何があった……レインハルトはどうした。まだ帰っていないのか……おいマッテオ、いったいリオラはどうしたんだよ」
マッテオはリュウの顔を見ると、弱々しい手つきで小さな紙切れを渡した。リュウはその紙切れを受け取ると、震える手でそれを開いた。そしてそこに書かれている文字をみた瞬間、リュウは死んだように固まったが、それも一瞬のことだった。リュウはものも言わず、店を飛び出していた。
「リュウ、どこに行くんだ!」
マッテオが慌てて店を出て叫んだが、すでにリュウの姿は暗闇の中に消えていた。