「いいや、わが子よ」と彼は私の肩に手を置いて、いった。「私はあなたとともにいます。しかし、あなたの心は盲いているから、それがわらかないのです。私はあなたのために祈りましょう」
そのとき、なぜか知らないが、私の内部で何かが裂けた。私は大口をあけてどなり出し、彼をののしり、祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞ、といった。私は法衣の襟くびをつかんだ。喜びと怒りのいり混じったおののきとともに、彼に向って、心の底をぶちまけた。君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自分に自信を持っている。
引用:『異邦人』(著:カミュ― 訳:窪田啓作)
人間とは本当に捉えがたい存在だと思う。
僕自身に置き換えても、家族を愛しているし、そのためにこそ生きているし、生きなければならないと思っているが、その一瞬後には、どこか一人でのんびり過ごすのも悪くないななどと考えることもある。
泣き、笑い、怒り、喜ぶ、人間には様々な感情があるが、ある感情に飲み込まれても、すぐに別な感情が湧き上がってくる。
史上最年少でノーベル文学賞を受賞したカミュ―の処女作、『異邦人』。
カミュ―は、この作品で、そんなごく当たり前の人間を描いたんだと思う。だが、この主人公はそんな当たり前すぎる人間だったが故に、そういう人間であることに正直すぎるが故に、常識的な人間はこうあるべきだというこれまた人間の持つぼんやりとした価値基準によって、死刑を宣告された。
上記は、死刑を宣告された主人公のもとに現れた宣教師が、この世での最後の時を迎えるにあたり、神にすがり、神を受け入れなさいと諭そうとする場面である。
だが、彼はそれを拒絶する。
自分という存在は、神などというものと一切関りがないし、信じてもいないものを信じるふりをするようなことを自分自身に許さないからだ。
そういう意味においては、主人公ルムソーは、最も純粋な人間と言えるのかもしれない。
では、そんな純粋な人間に死にもたらしたものは、いったいなんなんだろう。
彼は死刑に値するほどの罪を犯したのだろうか。
何のために死なねばならなかったのだろうか。
彼を裁いた人間たちは彼を裁くほど完璧な存在だったのだろうか。
現代の僕たちは、カミュの問いかけにどう答えるのだろうか。