浩平と桜は宮澤の大学時代の同級生やゼミの後輩を片っ端からあたっていたが、手掛かりになりそうなことは何一つ聞き出せないでいた。ただ宮澤の同級生で同じ内藤ゼミに所属していた高橋という男が語った言葉が妙に浩平の頭に残っていた。
「宮澤はほんと頭良かったですよ。それに生まれつきリーダーシップがあるっていうのか、後輩とかの面倒見も良かったですね。責任感も強いし実行力もあって、なんていうか完璧なやつでしたよ。完璧すぎるっていうか。あいつはニーチェに心酔していたから、ニーチェが説いた生き方みたいなものを実践しようと気張ってたんじゃないかな。でもそういうことを言ったら、うちらのゼミ生みんな多かれ少なかれそういうところがあったかも。あいつほどじゃないけど、みんなニーチェを気取って、社会の常識みたいなことを小ばかにしてたっていうか。ま、俺たちみたいなのは結局カッコだけなんですけどね」言い終わった後にハハハと笑う高橋の姿が印象的だった。
「先輩、ニーチェって詳しいですか?」サンドイッチの包装フィルムを開きながら、桜が不意に尋ねた。
「少しはな」同じくおにぎりの包みを手際よく開きながら浩平が答えた。
「ニーチェってのは簡単に言えば、中世のキリスト教的な概念、つまり神を否定しこの現実世界の中で人間はどう生きるべきかってことを追求した哲学者さ。最も有名な著書が『ツァラトゥストラはかく語りき』っていう本で、その中でツァラトゥストラが語った『神は死んだ』ってフレーズは結構有名だぞ」
「あ、なんか聞いたことあります」サンドイッチを頬張りながら桜が声をあげた。
「大学の頃、俺もニーチェにはまった時期があってな。超人思想に共感したもんだよ。あの時は、俺も若かったな」浩平は大学時代の放埓な自分を思い出して苦笑した。
桜は学生時代の浩平の姿を想像し、少し微笑みながら、言葉を続けた。
「先輩の大学時代の話は後でじっくり聞くとして、超人思想ってなんですか?」
「超人っていうのは他人の考えや常識みたいなものに縛られず、確固とした自分自身の意志や価値観を持って、この現実世界の中で新たな価値を生み出し、目指すべき世界に至ろうとする人間たちのことさ」
「自分自身の意思や価値観?」浩平が言っていることがよく分からないという風に桜は聞き返した。
「つまり、神が仰ったとか、本に書いてるとか、そういうことじゃなくて、自分が十分に納得した上で自身の信念に基づいて、世界を変えていこうとするってことさ」
「なんだ。でも、そんな程度のことだったら、超人なんて周りにたくさんいるんじゃないですか」桜は拍子抜けしたように言った。
「確かに言葉遊びだったら、そんな程度のことさ。でもニーチェはそういう言葉遊びのような哲学ではなく、もっとリアルに、この現実世界の中で人間はどう生きるべきかってことを徹底して追求したんだ。だから超人思想ってのは精神世界に安住するための思想ではなく、我々人間は肉体を持った存在として常に高みに向かって登り続けなければならないっていう行動の思想なんだよ」
「先輩が言っていることはなんとなく分かるんですけど……」桜は首を傾げた。
浩平は少し考える風にしていたが、何か思いついたらしく、意地悪い笑みを浮かべた。
「桜、俺たちが住むこの社会って、これからどうなっていくと思う?」
「……どうって、やっぱりどんどん進歩していって、ますます便利な世の中になっていくんじゃないんですか」質問の意図が理解できなかった桜はおずおずと答えた。
「どんどん進歩していって、ますます便利になっていくか――確かにそうかもな。だが、便利っていうのは誰にとっての便利なんだ」
「それは人間に決まっているじゃないですか」
「そう、俺たち人間にとっては、社会はどんどん便利になっていくのかもしれない。だが、その便利な社会の裏側で様々な問題が顕在化しているのは知っているだろ。動物や植物種の絶滅、地球温暖化や環境汚染。こんな言葉は毎日どこかで必ず目にし耳にする、そうじゃないか? しかもお前は人間にとって便利といったが、それは違う。ほんの一部の人間にとって便利になっているに過ぎない。実際、今でも世界人口の半数にも及ぶ四十億人以上が一日二百円以下で暮らしている。これがお前の言う便利な世の中の本当の姿なんだぞ」そう言うと、浩平はおもむろに桜に尋ねた。
「俺が何を言いたいか分かるか?」
桜は浩平が何を考えているのか分からず小さく首を振った。そんな桜をみつめながら、浩平は冷たく言い放った。
「文明と地球は共生できない、いつかどちらかが確実に滅びるってことだ」
「そんなことって……」桜は絶句した。
「少なくても俺はそう考えている。だってそうじゃないか。人間以外の生物はすべて自然の循環の中で生きている。生きるために必要なエネルギーだけを他者から得て、他者が生きるために必要なエネルギーをきちんと自然に帰している。しかし人間だけは違う。人間が作り上げた文明という怪物は便利、快適さの追求という美名のもとに、地球が五十億年かけて蓄えてきた財産をあっという間に食い散らかし数えきれないほどの生命を踏みにじってきた」
さすがに浩平の言うことが極端すぎると思ったのか、桜が反論した。
「確かに開発を進めることで動物たちを絶滅に追い込んだり、環境を悪化させてきたってことは私だって理解してます。世界では飢餓に苦しんでいる人々がまだたくさんいるってことも知っています。でも少しづつ住みやすい社会にしてきたからこそ、多くの人が安心して生活できるようになったんじゃないですか。効率よい社会システムができたからこそ、たくさんの人が文明の恩恵を享受できるようになったんじゃないんですか」
桜の言葉を聞いた浩平が不敵な笑みを浮かべた。
「効率よい社会システムか。俺は、その効率とか合理という観念こそが地球を死に追いやる最も禍々しいものだと思っている。中世が終わり、合理主義や効率主義が世界中に蔓延するに従って、人間たちは無駄なものを切り捨て、自分たちが得られる利益をいかに最大化するかということを一番の関心事としてきた。利益を得るのに役に立つかどうかという視点のみが優先され、役に立たないものは無意味かつ無価値なものとして、ぼろ雑巾のように投げ捨てられた。人間のもつ多様な個性すらも有用か無用かという価値基準のもとに容赦なく篩にかけられ、無用な個性をもつ人間は存在価値の無い人間というレッテルを貼られ社会の片隅に追いやられた。この世の中を見てみろ、合理、効率というペンキを塗りたくられた画一的な人間たちがカビのようにはびこり、この社会をのっぺりと覆い尽くそうとしている。そんな社会になじめないものたちは、どんどん孤立していき行き場所を失っている。パワハラ、いじめ、学歴社会、これがお前が賛美する効率の良い社会の裏の姿だ。そして、そういう世界を作ったのはまぎれもなく自分たちである癖に、そういう裏側の問題にはなるべく触らないようにして目を背け、快適で美しく飾りたてられた表の世界だけを讃美し、自分たちが作り上げた社会は全く素晴らしいと自画自賛する始末だ」
浩平の顔には鬼気迫るものあり、桜はたじろいでしまいそうな圧迫を感じた。
「……先輩の言ってることは極端ですよ」
「じゃ、お前は便利だとか快適ということを追求したこの文明の行きつく先は夢と希望に満ち溢れていると、本当に思っているのか?」
「そりゃあ、確かにいろいろ難しい問題があるのは分かりますけど、なんとか解決できると思うんです。だってそのために世界中の国々がいろいろ話し合ってるし、最近は市民だって企業だって努力しているじゃないですか」
「確かにな。だがお前はどうなんだ。お前はこの問題を自分のこととして考えたことがあるのか。自分が生きているこの世界のために何をなすべきかと真剣に悩んだことがあったか。もちろんお前だって社会が大変な問題を抱えているってことは頭では分かっちゃいるだろう。だがどこか他人事のように感じてはいないか。大事な問題だってことは分かるけど、やっぱり自分の人生の方がもっと大事だよねって、そんな風に思っている自分が心の奥底のどこかに潜んでいやしないか。いや、俺が言った問題じゃなくたっていい。男女格差、性差別、DV、お前だって関心が深い問題はたくさんあるだろう。世の中にはそんな問題が数えきれないほど転がっている。そうした問題に疑問を感じ、本気でなんとかしたいと思ったことが一度でもあったか」
いつの間にか声が高くなっていた浩平は桜の頬が震えているのに初めて気付いた。
「……悪かった。いやお前を責めているわけじゃないんだ。俺だって同じようなもんだ……さっきの話だって俺自身本当に分かっちゃいないんだ。俺たち人間が寄生虫やウイルスみたいな地球を蝕む病原菌でしかないのか、それとも、文明は地球と共生できる可能性を秘めているのか……」そう言うと浩平は疲れたようにシートにもたれかかった。
「……超人なら、その答えを知っているってことですか?」桜がそっとつぶやいた。
「超人だろうが誰だろうが、未来を見通すことのできる存在なんていやしないさ。実際、俺たちが抱えている問題は算数の問題みたいに答えが必ずある問題ばかりじゃない、そもそも答えなんて存在しないものの方が多いんだ。だけど俺たちは過去には戻れない。間違ったからってやり直すことはできないんだ。だからこそ俺たちは誰かに頼るんじゃなくて、自分でしっかり考えなきゃいけない。自分たちが進むべき未来は自分たちが決めていかなきゃいけないんだ」
一呼吸おいて浩平は続けた。「ニーチェは生きることの意味を徹底的に追求した。そうして得た答えの一つが超人なんだよ。固定観念や常識の壁に囚われず、何が大事かを真剣に考え、新たな価値を創りだそうとする人々、目の前にある障壁から目を背けず、正しいと信じた道を歩み続けるものたち。それこそがニーチェの説く超人であり、超人思想の根幹なんだよ」
浩平の視線はどこか遠くを見ているようだったが、その眼は燃えるような強い光を放っていた。桜は、こんなふうにしゃべる浩平が嫌いではなかった。少し感情的になった自分を反省しつつ浩平に声を掛けた。
「――結局、超人っていうのは先輩みたいな人ってことですね」
「なんで俺が超人なんだよ」びっくりしたように浩平が振り向いた。
「だって、いっつもつまらないことでむきになって上司に食って掛かっているじゃないですか」
「何がつまらないことなんだよ。おかしいからおかしいって言ってるんだよ。だいたい、組織がダメだから――」浩平は身を乗り出して、しゃべり始めようとしたが、自分を見つめる桜の笑顔を見た途端、急に馬鹿らしくなったと見えて口を閉じた。そして、手に持っていたおにぎりを口に放り投げると、「さあ、おしゃべりはここまでだ。午後の聞き込み再開するぞ。次はどいつだ」と桜を急き立てた。急に現実に戻されたように、桜はカバンからリストを取り出した。
「え~と、上條和仁二十四歳。宮澤の後輩で彼も内藤ゼミを専攻しています」桜も食べかけのサンドイッチを一気に頬張ると、ハンドルを握り車を走らせ始めた。