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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(六)

 上條和仁の住まいは帝都大学から歩いて十分ほどの集合住宅が密集している一角にあった。浩平と桜は築三十年は経っているかと思われるような古めかしい二階建てのアパートの錆びついた階段を上っていった。

 二人は通路の一番奥の部屋の前に立った。玄関の脇には小さなプランターが置かれていてペチュニアが綺麗な薄紫色の花を咲かせていた。浩平は本当にこの部屋かと確かめるように桜の方を向いたが、桜はドアに203号室と書いてあるのを見ると間違いないとばかりにコクとうなずいた。浩平はそれを見ると気を取り直して玄関脇の旧式のインターホンを押した。ブザー音が室内でも響いているのが外からもはっきりと聞こえた。すると中で人が動く気配がした。二人は少しかしこまって立っていると、ドアが静かに開いた。

 

ペチュニア

 

「どちらさまですか?」

 透き通るような肌と潤んだ瞳を持った少年のような男がその場に現れた。落ち着いた様子で二人の姿を交互に眺め、年上と見定めた浩平の目をじっと見つめた。

「あっ! 上條和仁さんですか? 帝都大学の?」一瞬、言いようのない感情に襲われた浩平は慌てて声を出した。

「そうです」

「突然にすいません、実は私たちこういうものなんですが」浩平はもどかしそうに警察手帳を取り出すと、少し上ずった声で尋ねた。

「実は先週、帝都大学OBの宮澤拓己さんが殺害されまして、え~上條さんは宮澤さんとは一緒のゼミを受講していたと聞いていますが――あの、何か心当たりはないかと思ってお伺いしたんです」

「宮澤先輩が亡くなった件ですね。新聞で見ました。残念です。とても素晴らしい人だったのに」男は悲しげな様子で答えた。

「宮澤さんとは仲が良かったんですか?」いつもと様子が違う浩平を怪訝そうな目で見ていた桜が横から口を挟んだ。

「大学時代はよく話をしましたが、先輩が卒業されてからはほとんど会っていませんでした。先輩も仕事で忙しい様子でしたし」男はそう答えると桜の顔をじっと見つめた。

 桜は上條という男の透き通るような視線に耐えられなくなり、ぎこちなくカバンから手帳を取り出すとパラパラとページめくり「あの八月二十四日の土曜日の晩は何をされていましたか?」と思いつきのように尋ねた。

「八月二十四日ですか。その日は先輩と会っていました」男は落ち着いたようすではっきりと答えた。

「えっ! 八月二十四日の何時ごろですか? どこで会われたんですか?」意外な答えに驚いた桜が矢継ぎ早に尋ねた。

「実は、内藤教授が今月初めに亡くなりまして――あの、僕らのゼミの教官だった人なんですが――それで教授を偲ぶ会を企画しようかということになって、宮澤先輩と佐々木先輩と僕の同期の田口という男と四人で佐々木先輩のアパートで相談することになっていたんです」男は淡々と答えた。

「そこに宮澤さんも来られた?」

「はい、夜の七時頃から始めようってことになって、僕と田口がちょうど七時に着いて、そのあと、五分もしないうちに宮澤先輩も来ました。そこから相談というか、まあ、みんなで集まるのも久しぶりだったし、結局、単なる飲み会になって――いろんな話をしながらだいぶ盛り上がりました」男はその場を思い出したかのようにかすかに笑った

「それで?」

「ちょうど十二時頃かな。急に先輩がちょっと用事ができたからって言って、途中で帰ってしまったんです」

「その時は、どんな様子でした」

「特に変な感じはなかったです。誰かと電話で話していたみたいだから、急な用事でも入ったんだろうとは思いましたが」

「なるほど。そのあと、どこに行くとか言ってましたか?」

「どことは言っていませんでしたが、タクシーを一台呼んで慌ただしく出て行ったのは覚えています」

「そのあと、皆さんはどうされたんですか?」

「終電の時間も過ぎてしまっていたし、結局、佐々木先輩の家に泊めてもらうことにしました。それで翌朝帰ったんです」

「飲んだ席では宮澤さんはどんな様子でしたか? 不安な様子や何かに怯えているようなそぶりはありませんでしたか?」

「いや、特におかしなようすは。学生時代の失敗談や笑い話ばっかりでしたから。あんな楽しそうな先輩の姿を見るのは久しぶりでした――それがこんなことになるなんて」そこまで言うと、男は急に顔をしかめた。その表情には心底から溢れ出る真実の悲しみがこもっているように桜には感じられた。

「宮澤さんと仲が良かった友人に心当たりはありませんか?」

 ほんの数秒の沈黙があった。手帳に書き留めようと答えを待っていた桜はふっと顔をあげた。

「――先輩、いや僕たちは友達というものをつくることができないのかもしれません」
男は質問に答えるというよりも、まるで自分自身に言い聞かせるように小さくつぶやいた。
だが桜の怪訝そうな視線を感じてか、男は言葉を付け加えるように言った。

「哲学を学ぶっていうのは自らの心の奥底に踏み込んで、自分と真正面から向き合うってことなんです。そうした自分自身との何百、何千という数えきれないほどの対話の中で、いったい人間とは何なのか、何のために生き何をなすべきかということを本当に血みどろになるくらい己と格闘して、真理というはるかかなたに聳え立つ頂を目指して登り続けるという作業なんです」

 そこまで言うと逆に男は桜に尋ねた。

「本当の友達っていうのはどういう関係なんでしょう? 本当の友達っていうのはお互いを心の底から尊敬しあえる関係だと思うんです。同じ目標に向かってともに進むことのできる人たち、そして時には最高のライバルとして戦い合えるような間柄だと思うんです。でもたいていの人たちは互いを深く理解しようともせず、その時々で付き合いやすい人を選んで薄っぺらな話題に興じて友達ごっこを演じている。自分はどうあるべきか、人はどうあるべきか、世界はどうあるべきかなんてことは考えもしない――だから僕たちみたいな人間には本当に分かり合える友達はそう簡単にはできないんじゃないかって思うんです」男は何かを噛み潰すような口調で答えた。

 桜は返事に詰まり助けを求めるように浩平を見たが浩平は依然として、じっと黙ったまま上條という男の顔を見つめているだけだった。

 さっぱり口を挟もうとしない浩平にとまどいを覚えながら桜は次に尋ねるべき質問を頭の中で探していたが、なかなか思い当たらず、もうこれでやめようかと思った瞬間、男が左手の薬指に指輪を嵌めていることに気づいた。その指輪は決して婚約指輪とかそんな色気のあるものではなく、鳥のようなものが翼を広げている姿が彫り込まれた幅広のシルバーリングだったが、桜の視線に気づいた男は「ああ、これですか? これは大事な人からのもらい物でデザインも気に入っているので付けているんです」と言って指輪が良く見えるよう指を伸ばした。「ほら指輪自体が鷲が翼を広げているようになっているでしょう。鷲はこの地上で最も誇り高い生き物と言われているんです。僕もせめてこの鷲のように誇りだけは持っていたいと思って」男はそう言うと、指輪を愛おしむように眺めた。

 

鷲が翼を広げたように見える指輪

 

「本当に素敵なデザインですね。左手の薬指につけていらっしゃるので上條さんにとって大事なものなのかなと思って」

「いや彼女もいないので、今はこの鷲が僕のパートナーってわけです」男は軽く笑った。

 桜も相槌を返すように笑ったが浩平は相変わらず口を閉じたままだった。桜は他に尋ねることも見当たらず「他に何か宮澤さんの死に関することで思い当たることはありませんか?」と話を切り上げるように言った。

「ありません」男は桜の目をまっすぐに見つめると、そう言った。

 

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