「一体どうしたんですか?」車に乗り込むや桜は浩平に噛みついた。今まで何度も一緒に聞き込みをしてきたが、大事なところでは浩平が常に合いの手を入れて、それが絶妙のコンビネーションとなり、思わぬ一言を聞き出したことは一度や二度ではなかった。それが今回に限っては、浩平は最初に質問したきり結局最後まで黙ったままであった。
桜は不平顔で浩平を睨みつけていたが、浩平は口を閉じて前を見つめるだけだった。文句が口から出かかったがなんとか喉に押し込むと桜はギアを入れて車を走らせ始めた。人が往来する夕暮れの街並みを横目に見ながら、桜はさきほどのことを思い返していた。確かに不思議な雰囲気を持った青年であった。
上條和仁二十四歳。宮澤の一年後輩にあたり、同じ内藤ゼミを専攻。成績は宮澤に負けず劣らず優秀でドイツ語を完璧にマスターし、ギリシャから近代に至る西洋哲学に精通し宗教学にも造詣が深かった。将来は大学院に進み博士課程を取るものと誰もが思っていたが意外にも大学四年で卒業し現在は無職であった。
高木という上條の同級生から話を聞いた際には、「いい奴でしたよ。あんまりしゃべる方じゃないけど、気が利くやつだったから誰からも好かれたんじゃないかな。悩み事があってもあいつと話すとすっきりするっていうのか、ただ黙って聞いてくれるだけなんですけどね。でも俺のことを分かってくれているっていうか、そんな安心感を与えてくれるんですよ――家族ですか? あんまり昔の話はしなかったけど、確か母子家庭で結構大変だったみたいですよ。若い時に苦労したから俺なんかと違って人ができてるんですかね」と苦笑しながら語っていた。
浩平と桜はいきつけの居酒屋「山小屋」で酒を飲んでいた。ここは浩平が大学時代に所属していた山岳部の先輩が切り盛りしている居酒屋で、店主が山男のくせに魚が大好きで旬の魚にこだわりいい酒を出すので酒好き、魚好きの浩平の格好の飲み場になっていた。小あがりとカウンターがある一階がメインなのだが実は二階にも部屋があって、浩平のような山仲間は勝手気ままに二階にあがり、好き勝手に飲むことができた。大抵は浩平に誘われてくることが多いのだが、今日はあれから明らかに何かを思いつめている様子でいくら話しかけても生返事を繰り返す浩平に業を煮やした桜が、浩平の胸の内を探ろうと思って無理やり引っ張ってきたのだった。
すっかり常連になった桜も勝手知ったる我が家のように、店主への挨拶もそこそこに二階の奥座敷に上がりこむと、さっそく座布団を二つ並べ、仏頂面した浩平を急き立てて自分の前に座らせた。すぐに生ビールが二人の前に運ばれてきたが、並べる間もなくジョッキを握ると浩平のジョッキにカチンとあてて、そのまま喉に流し込んだ。その様子を呆れたように眺めていた浩平であったが、観念したようにジョッキを手に取って口をつけた。
いつもなら、一口ビールが入れば怒涛のように桜相手に気炎をあげる浩平なのだが、今日はビールを飲み干しても黙ったままで、すぐに日本酒に切り替えると湯呑茶碗を片手に何かを思うようにちびちびと飲んでいるのだった。何度か気を引くような話題を振った桜だったが、さっぱり浩平が乗ってこないのでもう当初の目的は諦めたように目の前の鮎の塩焼きに舌鼓をうっていた。
「でも宮澤もある意味幸せですね。同僚や後輩からあんなに慕われて」鮎の身から骨を上手に剥がしながら桜は独り言のように呟いた。
「――あいつだよ」
それまでうんともすんとも言わず、ずっと黙ったまま酒を啜っていた浩平が突然ぶっきらぼうに言い放つと、何かを吹っ切るように茶碗酒を飲みほした。
桜は顔を上げると浩平に向かって声を張り上げた。「いったい、どうしたんですか先輩、絶対変ですよ。まるで何かに憑かれたみたいですよ」
憑かれた、まさに憑かれたのかもな――浩平は薄く笑った。
「今回の件は、あの上條ってやつが仕組んだんだよ」
「上條? だって、そんな人には見えませんでしたよ」
「お前は見た目で決めるのか?」
「先輩だって、一度会っただけで決めつけているじゃないですか!」桜は箸を置いて、浩平に食って掛かった。
「俺くらい経験を踏むとだな、だいたいこいつが怪しいってのはなんとなく分かるんだよ。特に事件が殺人とかになってくればなおさらさ。理由はないよ。ただ、そいつが持っている雰囲気っていうのかオーラっていうのかさ――人を殺すってのは大変なことなんだよ。普通の人間じゃ越えられない壁があるんだよ。そりゃ俺たちだってむかついたやつを殺したくなるような時もあるさ。だけど、だからといってナイフで突き刺せるか? 後ろからバットで殴り殺せるか? 普通の人間はそこまでできないんだよ。どうしても捕まった後を考えてしまうし、何もそこまでしなくてもって無意識に自分にブレーキをかけてしまうもんなんだよ。だからさ、それを超えるにはよっぽどの覚悟か……それか狂気が必要なんだよ。そういう普通の人間では決して乗り越えられない壁を乗り越えてしまった奴はさ、なんとも言えない雰囲気を持っているんだよ。それは隠そうったって、隠し通せるもんじゃないんだよ」
浩平は今まで黙っていた分を取り戻すかのようにまくし立てると、最後にぼそっとつぶやいた。「……俺は、あいつにそれを感じたんだよ」
桜はしゃべり続けている浩平を見つめながら、この人はまだ何か隠しているんじゃないかと、ふっと感じた。
「先輩の言ってることは分かりますよ。私も彼に会って、なんていうかこの人は普通の人とは違うなって感じましたし……でも、それは狂気とかそういうものじゃなくて、なんていうんだろ……ただ……」
「ただ、なんだよ」
「……とっても寂しい人なんじゃないかなって」
しばらく迷い悩んだ末に桜が言った一言が浩平の胸に突き刺さった。
そうなんだ。あいつを見た瞬間に俺の体を走り抜けた感情はそれだったんだ。この世界にたった一人で生きているかのような孤独感、世界の重荷をすべて背負っているかのような悲壮感、常人では到底なしえない定めを宿命づけられた、そんなものを身にまとった少年のような男の寂しさだったんだ。
浩平はようやく自分の中に溜まっていたものの正体を見つけたような気がした。だが、それだけでは表しきれない感情がまだどこかに潜んでいるような気がした。これまでの人生で一度も味わったことがない感情。どういう風に表現すればよいのか、それはもしかすると言葉にするのが恥ずかしくなるような感情であるかもしれなかった。
「――先輩」茶碗を持ったまま黙りこんでいた浩平に桜が優しく声をかけた。
不意に現実に戻されたかのように目をしばたかせると、目の前にはキャンターを持って酒を注ごうとしている桜の姿があった。浩平が徐に茶碗を差し出すと水晶のように煌めく液体が注ぎ口から流れ落ち、湯呑茶碗を一杯に満たした。浩平は透明な液体が茶碗の中でゆらゆらと揺れるさまをぼんやりと眺めた。
桜はテーブルの脇に置いてある湯呑茶碗を一つ手に取ると、キャンターに残っていた酒を全部注ぎ入れた。そして、半分ほども入った茶碗を両手で持つと、ほどよく冷えた日本酒を全身で堪能するかのようにゆっくりと口に含んだ。喉を流れるひんやりとした感覚が心地よく、血管が膨らみ、体の中の血液が勢いよく回り始めるのをリアルに感じた。
「先輩」桜がもう一度、声をかけた。「私たちは哲学者じゃありません。警察官です。頭の中だけじゃ逮捕はできません。確固たる証拠が必要です」
桜の言葉は思索の世界に囚われていた浩平の心を現実に引き戻した。浩平は桜の顔を見つめると静かに頷いた。「そのとおりだ」