今年は残暑が厳しく、もう九月になろうとしているのに今日も真夏日を記録したようで、この時間になっても肌に粘着するようなべとついた熱気が辺りに漂っていた。浩平は開襟シャツを着ているにも関わらず暑さに辟易したように悲鳴を上げた。
「しかし暑いな。東京に来てから十年になるけど、東京の夏の蒸し暑さだけはいまだに耐えられないわ」
「このくらいなんともないですよ。先輩は東北出身だから暑さに弱いんじゃないですか?」
全く暑さを感じさせず涼やかに笑う桜の姿が、浩平には少しまぶしく感じられた。
「関西で育ったお前がうらやましいよ。とにかく早く帰ってキンキンに冷えたビールを飲みたいわ」浩平の一言に桜は笑った。
二人は八月二十四日の晩に宮澤や上條と一緒に過ごしたという田口宜夫という男から話を聞くために、田口が住むアパートの近くに車を停めてその帰りを待っていた。
「おっ、帰ってきたみたいだぞ」行きかう人々を見定めていた浩平が声を上げた。桜が通りの方に目を向けると、半袖のワイシャツを着たそれらしき男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。二人は急いで車を出ると男に近づいた。
「すいません、田口宜夫さんですか?」アパートに入ろうとする男の背後に向かって浩平が声を掛けた。
「――そうですけど」男は警察手帳をかざした男と女の二人組を胡散臭そうに眺めながら小さく返事をした。
「こんな時間に申し訳ありません。実は帝都大学OBの宮澤拓己さんの件について調べているんですが――ご存知ですよね?」桜が探るように問いかけた。
「あ~、宮澤先輩のことですか」男は納得したように声をあげた。「いや上條とも、あんないい人が殺されるなんてありえないよなって話していたばかりで――あっ、上條っていうのは大学の同期なんですが――とにかく、びっくりしましたよ」
桜には田口のしゃべり方が少しオーバーに聞こえたが、表情には出さずに質問を続けた。
「上條和仁さんですね。以前お話を伺わせてもらいました。確か田口さんは八月二十四日の晩に、佐々木隼人さんのアパートで宮澤さんと一緒に過ごされたと伺っておりますが、間違いありませんか?」
「ああ、もう上條とは話したんですね――ええ、上條と一緒に佐々木先輩のアパートに行きました。ちょっと相談ごとがあって」田口は言葉を選ぶように慎重に答えた。
「相談というと?」桜は何も知らないふりを装って尋ねた。
「いや、内藤教授って僕たちのゼミの教官だった人が今月の初めに亡くなったんです。それで、その人のお別れ会みたいなものを企画しないかってことになって」
「ちなみに、その連絡はどなたから?」
「あの、内藤教授が亡くなったって聞いて慌てて上條に電話したんです。そしたら内藤教授のお別れ会を企画したいから集まって相談しないかって佐々木先輩から誘われてるっていうんで、一緒に行くことにしたんです」
「なるほど。それで佐々木さんのアパートに皆さん集まったんですね」
「そうです。だけど集まって三十分もしないうちに、佐々木先輩と宮澤先輩の二人でテキパキ全部決めちゃって。僕が思うに内藤教授の件は単なる口実で久しぶりに飲もうって腹だったんじゃないかな。結局、朝まで付き合わされましたからね」田口はそう言うと苦笑いを浮かべた。桜も合わせるように微笑みを浮かべて質問を続けた。
「じゃ、だいぶ盛り上がったんでしょうね。ちなみにどんなことが話題になったんですか」
田口は桜の笑顔に釣り込まれたのか、「どんな話って、僕らみたいな若い男が話すことなんて決まってるじゃないですか。どんな女性と付き合ったとか、仕事の失敗談とか、大学時代の教授の悪口とかそんなたわいもないことばっかりですよ」と少し調子に乗ったような軽いノリで答えた。
「確かにそんなものですよね。ところで宮澤さんはどんな様子でしたか?」桜は笑顔を絶やさずにさりげなく尋ねた。
「凄い楽しそうでしたね。いつもなら堅い話を熱くなって語る人なんですけど、あの時は、みんなの失敗談とか聞きながら大笑いしてましたね」
「そうですか。それでその後は?」
「なんだか凄い盛り上がってきちゃって、よし今日は徹夜で飲もうぜなんて言い始めるし、内心、マジかよって思っていたら――」
「すいません、徹夜で飲もうって言ったのは誰ですか?」遮るように桜が口を挟んだ。
「宮澤先輩です」
「それなのに、途中で帰られた?」
「そうなんです。十二時少し前だったかな、宮澤先輩の携帯が鳴って、そのまま外に出ていったんです。で、部屋に戻ってきたら、用事できたから帰るって急に言い出して」
「その時はどんな様子でした。何かにおびえるような感じはありませんでしたか」
田口は少し考え込むようにしていたが首を振った。
「いや、そんな感じは一切なかったです。どっちかと言うと、ちょっと困ったような感じだったんで、佐々木先輩がなんだよ女でもできたのかってからかったら、ま、そんなとこだって笑いながら言って、そのまま、タクシー呼んで帰っちゃったんです」
「それでそのあと皆さんは?」
「いや、時計見たら終電過ぎてて――じゃあ、うちに泊まっていけって佐々木先輩も言うんで、結局先輩のアパートに泊まらせてもらうことになりました。まあ、明け方近くまで飲んでましたけどね。気づいたらみんなで雑魚寝してました。で、翌朝九時頃かな、上條と二人で先輩の家を出たんです」
「それじゃ、宮澤さんが帰ってからは朝までずっと佐々木さんのアパートにいらっしゃったんですね」
「一度、酒が足りなくなったんで上條と二人で酒の買い出しに行かされましたけど、後はずっと先輩の部屋にいましたよ」
「すいませんが、お酒を買いにいかれたコンビニの名前と時間を教えていただけますか?」桜が今までと変わらぬ口調で尋ねた。
「……これってアリバイ確認ですか。あんまりいい気分じゃないですね」田口は明らかに不興気な様子だったが、やむなくと言った感じでコンビニの名前と買い出しに行った時間を桜に伝えた。
「佐々木さんのアパートを出られてからは、お二人はどうされたんですか?」
「まさか、俺たちを疑っているんですか。それじゃ、これ以上疑われても迷惑だからはっきりさせときますけど、翌朝もコーヒー買いに前の晩と同じコンビニに寄ってますし、駅で上條と別れてアパートに帰ってきて、えっと十一時頃かな、ほらあそこにあるラーメン屋で昼飯食べました。馴染みの店なんできっと覚えてますよ。それとも、今から一緒に行きますか?」田口は道路の向かい側に見えるラーメン屋を指差すと喧嘩腰に言い放った。
「よく分かりました。それじゃ上條さんとは駅で別れたんですね。そのあと上條さんがどこに行かれたかはご存知ですか」桜は下を向いて手帳に書きつけながら何気なく尋ねた。
「上條を疑っているんですか! あいつは人を殺すような人間じゃないですよ!」
田口はさきほどまでとは明らかに異なる形相で怒声を張り上げた。真っ赤な顔をぷるぷると震わせた田口の顔には、二人に対する敵意にも似た感情が見て取れた。
「いやあ、そんなつもりはないんですが、一応、僕らも仕事なんでちゃんと確認しないと上に怒鳴られちゃうんですよ」それまで黙って話を聞いていた浩平が横から声を挟んだ。
田口はもの凄い形相で二人を睨みつけていたが、小指で頭をポリポリ掻きながら学生のような物言いをする浩平に少し毒気を抜かれと見えて、「――あいつなら、いつものボランティアにいくって言ってましたよ」といくらか声のトーンを落として答えた。
「へえ、ボランティアですか」浩平が感心したように言った。
「ええ、あいつは日曜日の午後は児童養護施設でボランティアしてるんです」
「そうなんですか――ところで上條さんはどうやって暮らしてるんですかね? 確か、今は働いていないって言ってましたけど、生活するのにもいくらかはかかるでしょう?」
「家庭教師のバイトだけは続けてるんですよ。まあ、遺産も入ったから、しばらくは晴耕雨読の生活を堪能する気なんじゃないんですか」
「遺産?」
田口はうっかりしゃべり過ぎてしまったことを後悔したようだったが、「……三年前に上條のお母さんが亡くなって、生命保険を受け取ったんですよ」と低い声で答えた。
「それで、就職する気にならなかったんですか」浩平が納得したようにつぶやくと、田口は蔑みに満ちた表情を浮かべた。
「勘違いしてるようですけど、母親の件があったから就職しなかったんじゃないですよ。あいつは会社にこき使われるような、そんな低レベルな人間じゃないんです。もっと偉大なことを成し遂げる人間なんです。ま、刑事さんにこんなこと言うのもなんだけど、このくだらない手垢まみれの社会をぶち壊して、社会を作り変えることができる人間は、あいつ以外にいませんよ」田口の言葉には、まるで教祖を讃える信者のような響きがあった。
浩平はそんな田口を興味深く眺めていたが、「いや、上條さんは確かにそんな雰囲気をもってますよ。しかし田口さんは上條さんのことを良く知ってるようですが、付き合いは長いんですか」と媚びるように尋ねた。
「大学に入ってすぐ仲良くなりましたよ。あいつも僕と同じような考え方を持っているってすぐ分かりましたからね。ま、あいつは誰からも好かれるやつですけど、本当の親友って言えるのは僕くらいですかね」
上條のことを熱く語る田口を見て、浩平はふとあることを思いついた。
「上條さんが指に嵌めている指輪はあなたがプレゼントしたんですか?」
「指輪?」田口は怪訝そうに聞き返した。
浩平は桜と顔を見合わせたが、すぐに田口の方に振り向くと「いや、こちらの勘違いだったようです。ところで上條さんと最後に会ったのは?」と何気ないようすで尋ねた。
「……駅で別れたのが最後です」田口が低い声で言った。
「いやいや、遅い時間にすいませんでした。ご協力に感謝します」浩平はそれだけ言うと、桜を促して、その場を足早に立ち去った。
車に戻った桜は浩平に話し掛けようとしたが、浩平が小さく顔を振るのを見て押し黙った。浩平はそっと後ろを向くように合図した。桜が恐る恐る後ろを振り向くと、そこには猜疑心に満ちた表情を浮かべたまま、身じろぎもせず、こちらを見ている田口の姿があった。