太陽が西の空に落ちかかり、街中がオレンジ一色に包まれる頃、浩平と桜はまちの図書館に来ていた。
「うわ~涼しい!」図書館に入ると桜が大声をあげた。その言葉どおり、天上から吹き付ける涼気が肌にべとついていた湿気を一瞬のうちに追い払った。
「確かに、ここは別世界だな」昼の暑さに閉口していた浩平も一息ついたように笑顔を見せた。厳しい残暑が続いていることもあり、他の利用客もみな一様にほっとしたような顔つきで自分の時間を思い思いに過ごしていた。
「私、図書館ってあんまり来たことないんですけど、結構、雰囲気いいですよね」桜が少し浮かれた調子で周りを見渡した。
「お前な、本読まないのかよ」浩平があきれ顔を桜に向けた。
「私は本で学ぶよりも実社会で学んでいくタイプなんです」
「こういう人間が増えるから、読書人口が減るわけだ」
「メディアに惑わされるな。自分の考えで行動しろって、異動したての私に口を酸っぱくして言ってたのは、誰でしたっけ」
桜は浩平の嫌味を楽しむかのように、無邪気な笑みを浮かべて浩平を覗き込んだ。喉もとまで言葉が出かかった浩平だったが、結局諦めたように頭を振った。
二人は図書館の中を進み、奥にある学習コーナーに向かった。吹き抜けになったそのコーナーにはテーブルがいくつも並び、制服を着た高校生たちが静かにノートを広げ、鉛筆を走らせていた。ガラス張りの壁面にはロールカーテンが下げられていたが、強い西日はカーテン越しに室内を明るく照らしていた。
人だまりから少し離れたところに席を取ると、浩平はバッグからノートを取り出した。
「さ、遊びに来たんじゃないんだから、さっそく仕事に取り掛かるぞ。今日調べたいテーマは三つある。一つ目はニーチェの生涯の経歴。二つ目は『ツァラトゥストラはかく語りき』で語られる思想の骨格。最後はカードに書かれた『死の説教者』と『学者』という言葉の解釈だ。まずはこの三つに関係すると思われる書籍をすべて集めて、必要だと思われる個所に付箋を貼ってくれ。付箋は三色用意したからテーマごとに使ってくれ。その作業が終わったら、テーマごとに付箋を一つずつ確認していこう」
机の上に置かれたピンクと青と黄色の付箋を眺めながら桜が口を挟んだ。「『ツァラトゥストラはかく語りき』の思想の骨格を調べる意味は分かるんですけど、ニーチェの生涯の経歴っていうのは捜査に関係あるんですか?」
浩平は桜の質問を予期していたように少し唇をゆるめた。
「思想っていうのはそれ単独では存在しえないものなんだよ。生身の人間がいてこそ思想が生まれる。イエスがいなけりゃキリスト教は存在しないし、仏陀がいなけりゃ仏教も存在しない。孔子であれプラトンであれ、とにかく彼らがいて生身の声を放ったからこそ、その言葉は今の世に残っているんだ。だから、思想を知ろうとするなら思想を語った人間その人を知らなくてはならない。その人間が何に悩み、何を目指し、どう死んでいったかってことを知ることが、その思想の本質を知る一番の近道なんだ。それに――」
「それに?」
聞き返す桜を見つめた浩平は静かに言った。
「人間ってのは、思想に感動するんじゃない。人間に感動を抱くんだ。その人間がどういう人生を生き、何に悩み、何を思ったのか。そこに憧れや共感が生まれるんだ。そうじゃないか? 分厚い哲学書見ただけでその中身を理解したいと思うか? 本当に共感できるか。人間を知りたいと思うからこそ、その人間の語った言葉を理解したいと思うんだよ」
「たしかにそうですよね。キリスト教を信じるってことは、キリストその人を信じるってことですからね」桜は納得したように言った。
「そう。そして人間は自分と境遇が似た者に対して自身を重ね合わせる傾向が非常に強い。自分と同じような生い立ち、病苦、失恋、社会からの阻害感。その中で生まれた思いや感情に強い親近感を覚える。そう、俺もそう思っていたんだ! とね」
「分かった! つまり犯人もニーチェが体験したことと同じような体験をしている可能性があるっていうことですか」桜は興奮気味に声をあげた。
「そこまで単純に考えているわけじゃないが、何かのヒントはつかめるかと思ってな」
「了解です! 早速取り掛かりましょう」
桜の威勢のよい掛け声に苦笑しながら、浩平は広い館内を眺め渡した。
二人が図書館の中を行ったり来たりしているうちに、テーブルの上にはいつしか五十冊以上の本がうずたかく積まれていた。
「これ全部読むんですか」
また数冊本を小脇に抱えて戻ってきた浩平に向かって、桜がうんざりしたように言った。テーブルの上にビラミッドのように積み上げられた本の山を見て浩平も少し閉口したが、付箋を手に取ると、「とりあえず、大事だと思うところだけ付箋を貼っていこう。早く終わったら寿司でもおごってやるよ」と桜を元気づけるように言った。
「ほんとですか、約束ですよ!」桜は急に活気づくと積みあがった本の山から一冊を手に取り熱心に調べ始めた。浩平はそんな桜を見て軽く笑みを浮かべたが、自身も分厚い百科事典を手に取ると真剣な面持ちで読み始めた。
フリードリヒ・ニーチェ ドイツの思想家。一八四四年プロシア領ザクセン州のレッケンで牧師の子として生まれる。ボンおよびライプチヒ大学で学び、一八六九年にバーゼル大学古典文献学教授に任命された。その後、普仏戦争に志願して従軍の後、新興資本主義国家ドイツを厳しく批判したが、一八七九年健康を損ね大学の職を辞した。その後、イタリアとスイスを往来しながら、ひたすら著述に専念。どの著書も半盲の目、片頭痛および種々の肉体的苦悶を克服しながら書かれたものであった。一八九九年心身の衰弱に襲われ、一九00年にワイマールで死去するまで狂気のままであった。享年五十五歳。
アルツール・ショーペンハウアー,リヒャルト・ワーグナーの影響を受け、芸術の哲学的考察から出発したが、しだいに時代批判、ヨーロッパ文明批判に向かい、特に最高権威とされてきたキリスト教や近代の所産としての民主主義を弱者の道徳として批判し、強者の道徳として生の立場からの新しい価値創造の哲学を超人、永劫回帰、力への意思などの独特の概念を用いて主張した。今日では実存哲学の先駆者、新しい価値論の提示者として新たに照明があてられている。
「キリスト教や民主主義を弱者の道徳として批判し、強者の道徳として生の立場から新しい価値創造の哲学を超人、永劫回帰、力への意思などの独特の概念を用いて主張したか、民主主義は弱者の道徳ってことか」浩平がうなるようにつぶやいたが、そのフレーズにはなにか浩平の心に呼びかけるものがあった。昔、どこかで聞いたような……強者の道徳、超人、力への意思……どこかで……
突然、何かが浩平の頭を貫いた。浩平は山の下の方に埋もれていたニーチェ全集を取り出すと、目次を開くのも面倒とばかりにザッとページをめくり『ツァラトゥストラはかく語りき』を探りあてた。そこからペラペラとページをめくっていくと、あるページで手が止まり、浩平の視線が見出しの言葉に引き付けられていった。そこには浩平がすっかり忘れていた恐るべき思想が語られていた。
『新しい偶像』
国家は全ての冷酷なる怪物のうちで最も冷酷なるものである。それはまた冷酷に嘘をつく。「わたしは民族そのものである」と。
それこそが嘘である。民族を創造し、一つの信仰、一つ愛を彼らの上に掲げたものは創造者たちである。こうして彼らは人生に奉仕した。
多くの者のために罠を仕掛け、それを国家と名付けるものは破壊者である。彼らは一つの剣と百の渇望を多くの者の上にかけるのだ。
民族がまだあるところでは、国家は理解などされず、むしろ邪まなるものとして、また風習及び律法に対する罪悪として憎悪される。
民族とはいかなるものかを私はあなたたちに教える。各々の民族は善悪についての各々の言葉をもつ。その言葉を隣の民族は理解しない。その言葉は民族の風習及び律法の中から創り出される。
しかし国家は善悪についてあらゆる言葉で嘘をつく。何を語ってもそれは嘘である。何を持っていても、それは全て盗んできたものだ。
国家というものは、善悪を問わず全ての人々が毒を飲むところである。善悪を問わず全ての人々が己自らを失うところ。全ての人々の緩慢なる自殺、それが「生活」と呼ばれるところ。
国家が終わるところにこそ、本当の生が始まる。本当の人間の歌が、ただ一度しか聞くことのできない生の歌が始まる。
国家の終わるところ――私の兄弟たちよ、どうかそこを眺めて欲しい。あなたたちは見えないだろうか、あの虹を、あの超人の橋を。
ページをめくるたびにまるで文字が踊っているかのように、次から次へと浩平の眼の中に飛び込んできた。そして、一文字一文字が電気信号のように脳細胞を刺激し、浩平の記憶を呼び覚ましていった。