浩平は呆けたように固まっていた。かつてはそのビジョンに陶然と酔いしれたこともあったが、今の浩平にとってそのビジョンは粟立つような恐怖を感じさせるものでしかなかった。だがもし今回の犯人がニーチェに共感したかつての自分と同じようなことを夢想していたとしたら、今回の犯行の動機が既存の価値観の破壊、現在の社会制度に対する挑戦だとしたら――考え過ぎだ、浩平は何度も自分に言い聞かせようとしたが十数年ぶりに甦ったそのビジョンは脳内からなかなか消えようとはしなかった。
「――先輩!」
耳元で大きな声がした。浩平は慌てたように振り向いた。
「大丈夫ですか、顔色悪いですけど」桜が心配そうにこちらを覗きこんでいた。
「いや……大丈夫だ……何かわかったのか?」ようやく我に返った浩平が答えた。
桜は浩平の顔をじっと見つめていたが、浩平の顔に赤みが戻ってきたのを確かめると、ほっとしたようにしゃべり始めた。
「まだ全然、深くは読み込んでないんですけど、ニーチェって結構辛い人生を送っていたんですね。私、ニーチェって超人なんて言うくらいだから、スーパーマンみたいな人だと勝手に想像してました」
浩平は一息つくと答えた。
「哲学者ってのは大概そんなもんだよ。でなきゃ人生をそんな真面目に突き詰められないだろ。でも真面目に考えれば考えるほど、不条理な世界に対して疑問がわいてくる。ともに歩むべき仲間であるはずの人間の品性の無さに対する軽蔑、自分を正しく評価しない社会に対する怒り、理想とはほど遠い現実に対する失望。そうした感情の積み重ねが、哲学者たちをさらに孤独に追い込んでいく。哲学者で幸せな人生送ったやつなんているわけないよ」
「そう考えると、なんだか哲学者って可哀そうですね」
桜がぽつんと言った一言が浩平の脳内で反響した。二人は少しの間沈黙していたが、気を取り直したように桜が口を開いた。
「ニーチェの生涯を考えると病気と対人関係という要素が大きく注目できると思うんです」そう言うと、桜は黄色の付箋が貼られた本の一ページを開いた。
「病気という観点では、ニーチェは若い時から偏頭痛や激しい胃痛に苦しめられています。結局、精神を病んで五十五歳で亡くなっていますし、病に苦しめられた人生だったってことは間違いないかと思います」
「病気か。被害者ではあるが内藤は膵臓の末期癌で、だいぶ精神的に落ち込んでいたようだな。そこにも何か関係があるのかな? 宮澤には何か記録はないか?」
「宮澤には大きな病気の記録は残っていません」
「そうか。上條はどうなんだろうな?」
「そんなに頑丈そうな人には見えませんでしたね。もしかしたら、何か病気を患った可能性はあるかも」
「そこは調べてみる価値があるな」
桜は浩平の言葉に大きく頷きながら、付箋が貼ってある別な本を引っ張り出した。
「もう一つのキーワードである対人関係ですけど、ニーチェは学生時代から作曲家のワーグナーに心酔していたんですが、有名になって周りからちやほやされ得意になってしまったワーグナーに失望を感じ始め、後に公然と非難するようになり、ついには喧嘩別れしちゃいます。ニーチェの人間関係を見ていくと、なんだか、こういう傾向がすごく目立つような気がするんです。例えばレーという友達に紹介してもらったザロメという女性にすぐに夢中になって、一方的に後を追いかけまわした上にプロポーズするんですけど、結局ふられちゃいます。その後、ザロメはレーと同棲生活を始めて、結局二人ともニーチェのもとを去っていってしまうんです――なんていうんだろ。ニーチェって好きになると一気に突っ走っちゃうタイプで周りが見えなくなるっていうか、客観的に考える余裕がない人なのかも」桜は困ったような顔で言った。
「さすが、経験者は洞察力が違うな」浩平はにやにやしながら言った。
「ふざけないでください! 真剣に考えているんだから」
「悪かった、悪かった。それで?」
桜は浩平を一睨みして話を続けた。
「えっとですね。つまりニーチェは相手のことをよく知ってから関係を深めていくっていうごく自然なつきあい方じゃなくて、いきなり自分が望む姿を相手に投影して、それが相手の本当の姿だと思い込んでしまうような人なんじゃないかって思うんです」
「それはなかなか興味深い指摘だな」さっきとは打って変わって、真面目な態度で浩平が言った。
「俺は、犯人がニーチェと同じような体験をしている可能性があるんじゃないかと思って、ニーチェの経歴を調べようと思ったんだが、お前の言うことを聞いてもっと重要なことに気が付いた」
「どういうことですか」桜は浩平の言わんとすることが分からず首をかしげた。
「つまり犯人とニーチェには性格的に似通った点があるかもしれないという可能性だ。ニーチェはお前の言うとおり、かなりユニークな性格の持主だし、思想も相当先鋭的だ。社会に対する嫌悪感や他人に対する妄信的な思い込み、自分自身に対する強烈な自信、もし今回の事件の犯人がこうしたニーチェと似通った性格を持っていたとしたら、そいつは相当にクロである可能性が高いってことだ。極端なことを言えば犯人は自分をニーチェの生まれ変わりと考えている異常者かもしれない」
「ニーチェの生まれ変わり……」
「……あるいは、己をツァラトゥストラその人とみなしているもの」
桜のつぶやきを聞いた浩平がぼそっと付け加えた。重苦しい空気が二人の周りに漂った。浩平は沈鬱な空気を振り払おうと一つ咳払いをした。
「まあいずれにせよ、お前の言うとおり病歴や性格分析は犯人の特定に大いに役に立ちそうだな」
「ほんとですか」桜がうれしそうに言った。
「ああ、特に犯人の性格は今回の事件を解く鍵のような気がする。例えばお前の言う通り、犯人がある特定の人に対して狂信的とも言えるような親愛の情をいだくような人物であったとするならば、それが裏切られたと感じたとき、その相手に対して異常なまでの怒りが湧き上がって殺害に及んだのかもしれない」
浩平はそう言いながら、透き通るような白い肌をした一人の男の繊細そうな顔を思い出していた。憧れが失望に変わったとき、あいつはどんな反応をするんだろう。あの男も人を殺したいと思うほどの怒りを持てるのだろうか。だがどうしても浩平にはそのイメージが湧いてこなかった。浩平が想像できたのは、薄暗く荒涼とした大地にポツンと一人寂しそうな顔をして突っ立っている上條の姿だった。