アマチュア作家の面白い小説ブログ

素人作家がどこまで面白い小説を書くことができるか

【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十三)

 だいぶ利用者も減ってきたが浩平と桜の作業は続いていた。二人は積み上げられた本に付けられた付箋を一つ一つ確認していた。

「へえ、そうなんだ」桜が声をあげた。

「この本によると、ニーチェはザロメに振られたあと、失恋の痛みや病気を癒すためにイタリアに行くんですけど、そこで書かれたのが何を隠そう『ツァラトゥストラはかく語りき』なんですって」

「失恋のショックの中で『ツァラトゥストラはかく語りき』は書かれたってことか。この中にニーチェの女性観がかなり色濃く表現されているのはそういうことが原因なのかもな」浩平が納得したように言った。

「えっ、どんなことが書かれているんですか」

 浩平は目の前に置いてあったニーチェ全集をパラパラとめくると、にやにやしながら桜に目を向けた。

「例えばこんなことが書いてあるぞ。『女は全てが謎である。女の謎を解く答えはただ一つ、妊娠こそがそれである』とさ。まだあるぞ。『女が愛する時、男は恐れよ。女は愛のためにいかなる犠牲をも払う。その他一切のものには何の価値もおかない。女が憎む時、男は恐れよ。男はその魂において悪であるに過ぎないが、女は劣悪であるから』とね。なかなかうがったこというじゃないか」

「女性をその程度にしか理解できないなんて、ニーチェも大した哲学者じゃないですね」桜はすまして答えた。

 浩平はもぐもぐと何か言いかけたが、桜は浩平を無視するように今度はピンクの付箋がついた本を掻き集めた。開いては閉じるのを何冊か繰り返していたが一冊を手に取ると再び口を開いた。

「えっと次は『ツァラトゥストラはかく語りき』の思想の骨格についてですけど、前に先輩が教えてくれたとおりニーチェの代表作とみなされ、ニーチェ哲学の根幹をなす永劫回帰の思想が提唱されています。それで永劫回帰なんですけど、えっと『宇宙は永劫に繰り返す円環運動であるから、人間の生もこの地上の歓喜と苦悩を包んだまま永劫に回帰して止まることがない。したがって、来世も彼岸もあるわけではなく、ただ現世の瞬間瞬間の充実があるのみである』だそうです――こっちの方には『あらゆる存在は意味も目標もなく、永劫に繰り返されるが、この円環運動をあえて生きる決意をする者は生の絶対的肯定に転じることになる』とあります……先輩分かります?」

 浩平は古い記憶をたどるようにゆっくりと話し始めた。

「永劫回帰っていうのは、ちょっと説明が難しいな。そうだな例えば直線定規があってさ、俺たちの宇宙が百五十億年前に生まれたとするなら、その地球が生まれた瞬間を定規の端っことするだろ。そしていつか俺たちの宇宙も終わりを迎えるわけだけど、最後の瞬間をもう片方の端っことする。そういう世界ってのは、結局定規の上の直線の時間軸の中に存在しているわけだ。ところが永劫回帰の中ではその定規は円の形をしている。だから始まりもなければ終わりもない。すべては永遠に回帰するってわけだ」

「だって、宇宙が終わったらみんな無くなっちゃうじゃないですか」さっぱり分からないという風に桜が聞き返した。

「だが実際に宇宙は無数にあって、泡のように生まれては消えているって説もある。俺たちの宇宙はもしかすると単一ではなくて無数の宇宙の中の一つに過ぎないとしたら、永劫回帰ってのもそんなに的外れな考えでもないってわけだ」唇を曲げて考え込んでいる桜を見て、少し笑いを浮かべながら浩平が答えた。

「いまいち、よく分からないけど、仏教でいう輪廻みたいなものですか?」

「俺はそれに近いとは思っているけど、一つ大きく違うのは、仏教の輪廻思想ってのは人生とは苦しみの連続であり、その苦しみの循環から逃れること、つまり悟りをひらくことによってその循環から解放されるってことが主眼だが、ニーチェの永劫回帰の思想は永劫に続くこの世界を肯定して、なおこの瞬間を力強く生きろってことなんだ。だからニーチェは最初に神は死んだと唱えて天国や地獄という世界を否定し、この現実世界の中で生きることの大切さを説いたんだ」

「分かったような、分からないような。でも、言ってることは結構当たり前ですよね」

「そうかな。俺には人生の一瞬一瞬を大切にして生きてるやつがこの世の中にどれだけいるのかなって思う時が結構あるけどな」

「そうですか。私はみんなそれなりに一生懸命に生きていると思いますけど」
浩平は桜の答えにくすっと笑った。

「あっ先輩、今私のこと能天気でいいなと思ったでしょう!」

「思ってねえよ。そういう風に思える人間は幸せだなと思ったんだよ」

「同じことじゃないですか」

「まあ、その話はまたあとでな」桜のふくれっ面をみて苦笑しつつも、浩平の頭の中では永劫回帰という言葉が徐々に膨らんでいった。

「これは俺の直感なんだが、もし犯人が真に永劫回帰の思想を理解しているとしたら、殺人なんて行為を犯すわけないんだがな」

「どうしてですか?」

「永劫回帰の中では、生きることによって生じるあらゆることが無限に繰り返されるんだよ。もちろん喜びだけではなく、辛さや苦しさや痛みなど全ての苦悩も同じように繰り返される。その全てが正しんだという境地に達することができたとき始めて永劫回帰を理解したと言えるんだ。そういう人間が殺人なんて行為を犯すと思うか?」

「でも難しいですよね。辛いことや苦しいことを当たり前として受け入れるのって。そんなことができるのは、ある意味神様みたいな人じゃなきゃできないですよ」桜はポツンと言った。

「そのとおり。だから犯人は決して神でもなければ、賢者でもない。どんなに神らしく見えたとしてもただの異常者に過ぎないんだ」浩平は自分を納得させるようにつぶやいた。

 

永劫回帰

 

次話へ

TOP