窓の外はすっかり暗くなっていた。学生たちの姿もまばらになり、たまに聞こえてくる咳払いの音が異様なほど館内に響いた。既に九時を過ぎていたが、まだやるべき作業は残っていた。桜は気分を新たに話し始めた。
「永劫回帰についてはさっき言ったとおりですが『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で語られるもう一つの中心思想が超人思想です。えっと『人間は橋を渡る過程の存在であり超克されるべき単なる中間者であるにすぎず、超人はその対極にある概念として、肉体を持った意志決定者として生を肯定し、新しい価値を示すものであり、現代文明に毒された人々や神と対極をなすものである』――だそうです」
「ここで重要なのは、肉体を持ったってとこだな」
「どういうことですか」
「つまりこれまでの宗教や哲学は精神を肉体よりも上位とみなしていたんだ。つまり肉体とは不浄なものということだ。飲食、排泄、生理、性交、出産、老化、腐敗という肉体があることによって宿命づけられるこうしたこと全てが汚らしいということさ。逆に精神こそが人間を人間足らしめる、動物と人間を区別する唯一の証として重要視された。だから、中世のキリスト教的な考え方からすると、この世の快楽、つまり肉体を通じて得られる快楽はすべて不浄であり、そうしたことを忌避し、あくまでも来世、つまり肉体が滅びた後のヴァーチャルな世界に救いを求めることこそが最も重要だと考えられてきたんだ」
「まさに宗教者がいいそうな考えですね」
「そうだ。だからこそニーチェはそういう宗教者たちを『背世界者』として弾劾し、かわりに肉体をもつ己としての超人を示し、来世ではなく現世においてこの大地に生きることの意義について語ったんだよ」
「『背世界者』?」
「そう、ニーチェは既存の価値観に固執するものたちを様々な比喩で例えてるんだ。たとえば愚鈍な大衆は『市場の蠅』、なんでも平等を説く社会主義者たちは『毒蜘蛛』、さしずめテレビや新聞によく出てくる物知り顔で世の中の出来事を批評するようなやからは『高名の知者』ってとこかな」
「その中に『死の説教者』と『学者』が含まれているんですね」
「そうだ。『死の説教者』についてはこう書かれている」浩平はニーチェ全集をめくると、その部分を読み始めた。
『死の説教者』
死の説教者がいる。そして大地には生きるのをやめよと説教されていいような連中によって充たされている。
彼らは恐るべき連中だ。心中には猛獣が棲み、悦楽か自虐か、それ以外の選択を知らない。そして彼らの悦楽もまた自虐に他ならない。
彼らは言う。「生きながらえることは愚か者がすることだ。それほどに私たちは愚か者なのだ。そして、このことこそ、人生において最も愚かなことである」
だから、彼らの教理はこのようになる。「自らを殺すべきだ! 自らをこの世から盗み去るべきだ」と。
彼らにとって人生は辛い労働であり、不安に満ちたものでしかない。
彼らが、もっと人生を信じていたら、これほど刹那的な思いを持つことはなかったろう。だが彼らの内には豊穣とした実がなることはなかった、故に生き続けることに耐えきれず、怠惰にすらなれなかった。
死を説く者の声が至る所から聞こえる。そして大地は、死を説教されていいような連中によって充たされている。
浩平が読み終わると、桜は青色の付箋がついた参考書を取り出した。
「えっと、この本では『死の説教者』とは人生を否定的にとらえるいわゆる厭世主義者たちで、来世にこそ救いがあると説く宗教家や死後の世界に憧れる思想家たちを指していると書いています」
「――宮澤はそういう人間だったんだろうか」浩平がふとつぶやいた。
「どうでしょう? 周りの話を聞く限りではそんな印象は一切受けませんけど」桜は首をひねった。
浩平がいだく宮澤の印象も同じだった。ニーチェに心酔し、ニーチェの教えを己の道標として歩もうとした信念の男。最高学府を卒業し一流企業に就職、二十代の若さですでに社会の中で頭角を現し始めた天才。高い才能と強い責任感を持ち、後輩や同僚をぐいぐいと引っ張っていく、生まれながらにして上に立つべきことを約束された人間。どう考えても死後の世界に救いを見出すようなタイプとは思えなかった。まだ自分たちが知り得ていない何かが宮澤には隠されているのかもしれないが、考えても答えが見つかるとも思えず、浩平は諦めてため息をついた。
「ここに『学者』がありましたよ」いつの間にか、浩平の手元からニーチェ全集をさらってページをめくっていた桜が声をあげた。
「じゃ、今度はお前の番な」浩平がそう言うと、桜は学校で教科書を読むように姿勢を正し、落ち着いた声で読み始めた。浩平は目をつむり、桜の朗読に聞き入った。
『学者』
私はもう学者ではない。
なぜなら、私は学者たちの家を去ったのだ。荒々しく扉を閉めて出ていったのだ。
私は彼らと食卓を共にしたが、腹が満ちることはなかった。彼らがやる、胡桃割りのような認識の仕方に慣れることはできなかった。
私は自由を愛し、新しい大地の上の空気を愛する。彼らの威厳と名誉の上に眠るよりも、むしろ牛の皮の上に眠る方がいい。
私は熱烈なるが故に、自分の思想に焼かれる思いがする。そのためしばしば息がつけなくなる。だから私は埃くさい部屋から出て、外に出なければいけないのだ。
しかし彼らは陰の中で涼しく坐っている。彼らは何事においても傍観者であろうとし、太陽が照りつける階段の上には坐ろうとしない。
私が彼らと共に住んでいた時、私は彼らの上に住んでいた。そのため、彼らは私を怒った。
彼らは、自分たちの頭の上で人が歩く音を聞くことを好まない。だから彼らは私と彼らの間に、木と土とがらくたとを置いた。
こうして彼らは私の足音を消した。それ以来私は、最も学識ある人たちの耳から最も縁遠いものになった。
しかし、それでも私は私の思想によって、いぜん彼らの上を歩いている。私が過ちを犯したとしても、やはり私は彼らの頭上を歩いているだろう。
なぜなら、人間は平等でないからだ。正義はそう語る。そして、私が欲するところのものを、彼らや絶対に欲することができない。
桜の声が途切れると同時に浩平はつむっていた目をかっと見開いた。『ツァラトゥストラはかく語りき』が哲学書であるという固定観念を捨てて、素直にこの部分だけを聞けば、ツァラトゥストラと学者には明らかに師弟関係があるとしか聞きようがない。
ツァラトゥストラはかつて学者のもとで学んだのだ。しかし学者は嘘にまみれたペテン師にすぎず、それを知ったツァラトゥストラは大いに失望した。一方、学者もツァラトゥストラを深く憎んだ。ツァラトゥストラが学者よりはるか上の高みを歩んでいたがゆえに。
浩平の思いは桜にも伝わっていた。
「やっぱり内藤ゼミの受講生の誰かが今回の犯行に大きく関わっているってことじゃないですか。内藤が『学者』で、その弟子として学んだ誰かが」そう言って桜は内藤ゼミの受講者の顔を何人か思い浮かべた。彼らの中の誰かがツァラトゥストラを気取り、内藤と宮澤の二人を殺したに違いない。
「まあ落ち着け。いずれ宮澤と内藤についてはもっと調べる必要がありそうだな。特にも大学時代の人間関係がこの事件の鍵を握りそうだからな」浩平は、桜のみならず自分自身をもなだめるように声を落ち着かせて言った。
「でも、病歴とかは調べようがありますけど、人間関係の深いところまで調べるのは難しくないですか」
「まあな。だが今回の犯人がツァラトゥストラを気取ってる狂信者だとしたら、やりようはある」そう言うと浩平はいたずらっぽい目をした。「本音ってのは感情の高まりとともに出てくるもんだろ。そういう風にしむければいいのさ」
「ああ! 先輩のいつもの手ですね」桜もにやりと笑った。
「だが、もし犯人の動機がもっと別なものだったらとしたら、そう簡単にはいかないかもしれない」浩平の声のトーンが急に下がった。
「もっと別なもの?」桜が尋ねた。
浩平の脳裏には、あの恐るべきビジョンがいまだに残っていた。ありえないと思いながら、どうしてもそのビジョンを拭い去ることができなかった。浩平は、桜がこちらをじっと見つめているのに気付いた。浩平は桜を見つめて、ぼそっとつぶやいた。
「……俺たちが住むこの社会の完全な破壊」