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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(十七)

「ところで、佐々木さんは上條さんが指輪をしているのをご存知ですか?」浩平が話題を変えた。

「指輪? 上條がですか? いや、あいつはそんなものしてませんよ」佐々木はきっぱりと否定した。

「じゃ、二十四日の晩も指輪はしてなかったんですね」

「あたりまえじゃないですか。一体、なんのことを言ってるんですか」

「いや先日上條さんにお会いした時、左手の薬指に指輪をしてましてね。聞くと、これは大事な人にもらったものだと言ってたんで」

「どんな指輪ですか?」

「それがですね、鳥が翼を広げたようなデザインの指輪で」

 それを聞いた途端、佐々木の眼が大きく見開いた。

「何か、ご存じなんですか」浩平が探るように尋ねた。

「……いや、もしそれが鷲を象ったシルバーリングなら、それは拓己のものですよ」

「宮澤さんの?」

「ええ」

 浩平と桜は佐々木の顔をみつめた。

「あれは卒業を間近に控えた三月のことでした。僕と拓己は卒業記念と称してドイツに旅行にいったんです。社会に出たら海外なんて滅多にいけなくなるから、この機会にニーチェの足跡をたどろうぜって二人で企画して――あのリングはニーチェの生まれ故郷のザクセンにいったときに、街の銀細工店でたまたま見つけたもので、拓己がえらく気に入って買ってきたものなんです」

「そうだったんですか」浩平が納得したとばかりに頷いた。

 佐々木は少し思い惑っているようだったが、「実は似たようなデザインの蛇のリングもあって、僕も買ってきたんです――あの、ちょっと待ってもらってていいですか」と、そう言うと佐々木は隣の部屋に飛び出していった。 ゴソゴソと何かを探している音がしたが、少しすると佐々木が戻ってきてテーブルの上に指輪を一つ置いた。それは上條がつけていたものと似たような造りの幅広のシルバーリングだったが、そこに刻まれていたのは鷲ではなく蛇であった。浩平は手にとって仔細に眺めていたが、リングの内側に文字が刻み込まれていることに気づいた。よく見るとローマ字でHAYATO SASAKIと書かれていた。

 

蛇の形をした指輪

 

「リングの内側にイニシャルを掘ってもらえるんです。だから、お互い彫ってもらって、店を出てから公園のベンチに座って見比べあいました――あいつはその時こう言いましたよ、『隼人、俺はこの鷲のように最も誇り高い人間にきっとなってみせる。だからお前は、この蛇のように最も賢明な人間になれ。そして、俺たちでこの世の中を変えていこうぜ』って――」佐々木は小さくそう言った。

 浩平はそんな佐々木をじっと眺めていたが話を戻すように、「宮澤さんはこれをいつも身に着けていたんですか?」と聞いた。

「いや、見たとおり結構目立つんで会社ではつけてなかったと思います。休日にはたまにつけてましたけど――まあ、最近はほとんど会ってなかったから分かりませんが」 佐々木は自嘲気味に言った。

「ちなみに二十四日はつけていましたか?」

「いや、つけてなかったと思います」

 浩平は少し思案していたが「ところで内藤教授についても少しお聞きしたいんですが、どういう方でした?」と話題を切り替えた。

「……優秀な教授だと思いますよ。一時期はテレビにもよく出てましたし、なんといっても西洋哲学の分野では第一人者ですから」佐々木は言葉を選ぶように言った。

「内藤教授を恨んでいるような人に心当たりはありませんか」

「教授をですか。そりゃ結構舌鋒が鋭い人だったし、テレビでも辛口評論家として知られてましたから、いろいろ言われた人にしてみれば面白くはなかったでしょうけど……」そこまで言うと佐々木は急に顔色を変えた。

「まさか内藤教授は殺されたんですか?」

 浩平は佐々木の顔を見つめていたが、覚悟を決めたように口を開いた。

「実は内藤さんと宮澤さんの死体現場に妙なものが残されていたんですよ」

「妙なもの?」

「宮澤さんの死体のそばには『死の説教者』、内藤さんの死体のそばには『学者』とそれぞれドイツ語で書かれたカードが添えてあったんです」

 その言葉を聞いた瞬間、佐々木の表情が凍り付いたように固まった。

「『死の説教者』……『学者』……」絞り出すような声が佐々木の口から洩れた。

「当然、あなたはご存知のことと思いますが、これらの言葉は『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で重要な意味を持っていますよね」浩平の声は鋭さを増した。

「佐々木さん、我々はこの一連の事件が宮澤さんとあなたが受講したゼミのテーマ、つまり『ツァラトゥストラはかく語りき』になんらかの関わりがあると見ているんですよ。佐々木さん、改めて伺いますが何かこの事件に関して思い当たることはありませんか?」

 佐々木の浅黒い顔が真っ青に見えるほど、その顔からは血の気が引いていた。かなり混乱しているようであったが、しばらくすると声を振り絞るようにして話し始めた。

「びっくりしました……そんなものが残されていたなんて。確かにその言葉はどちらも『ツァラトゥストラはかく語りき』の中に出てくる言葉です。ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で、ツァラトゥストラの思想とは相いれないタイプの人間たちを様々な比喩を用いて例えているんです。『死の説教者』や『学者』だけではなく、他にも、『背世界者』、『蒼白の犯罪者』などという具合です。ニーチェは、こうした人間たちを既存の価値感にしがみつくしか能がない弱者としてこっぴどく批判しているんですが、僕たちのゼミの中心的な研究テーマはまさにこうしたものたちと現代人との類似性を探ることにあったんです」

「佐々木さん、私たちは宮澤さんの死体の傍に『死の説教者』という言葉が残されているということは、そこに何か深いつながりがあると思っているんですよ。『死の説教者』が何を意味する言葉なのか、あなたはよくご存じのはずだ。宮澤さんと『死の説教者』という言葉には何か関連があるんじゃないんですか?」

 佐々木は浩平の問いに困惑したような表情を浮かべていたが、ようやく自分の考えに納得がいったのか、浩平の顔を真正面から見据えると力強い声で答えた。

「刑事さん、あいつほど死後の世界に縁遠い男はいませんよ。何度も言っているように、あいつはこの世界に自分の理想とする社会をつくりあげることを何よりも大事にしていました。だから来世や死後の世界なんかには一切興味を持たなかったし、そういうことを説く人間たちを鋭く批判していました。あいつが『死の説教者』だなんて、そんなことは絶対にありえないですよ」

 浩平は佐々木の顔をつぶさに眺めていたが、その表情からは迷いやとまどいと言った感情は何一つ見つけることはできなかった。佐々木の回答に黙した浩平に代わって、今度は桜が質問を始めた。

「では、内藤さんと『学者』については、いかがですか」

 その質問を受けた佐々木は少しばつが悪そうに二人を眺めていたが、あきらめたように口を開いた。「決して内藤教授を非難するつもりはないですけど、あの人が少し世故長けたところがあったのは事実です。舌鋒鋭く社会を批判してはいましたが、その社会からの評価をとても気にしていました。だから内藤教授のことを『学者』って皮肉を込めて呼んだことは確かにありました」

「それは誰ですか!」桜が噛みつくように尋ねた。

「誰ってことはないですよ。ゼミ生みんなが教授のことを陰でそう呼んでたんです」

「上條さんたち一つ下の方々もですか」

「ええ。だから学生だけで飲んだ時なんか、教授の話題だけで結構盛り上がりましたよ」佐々木は後ろめたそうに話していたが、急に怒ったように浩平と桜を睨み付けた。

「でも、人間そんな完璧な人なんてそうそういるわけないでしょう。教授だって僕らと同じ普通の人間なんですよ。僕は社会に出てようやく生きてくことの大変さが分かってきました。今思えば教授だって精一杯生きていたんだなって思います。逆に僕らの方が人生も社会も何も知らない、ただの青二才だったんですよ!」

 佐々木の熱っぽい口調に圧倒された桜は助けを求めるように浩平を仰ぎ見た。その瞬間、桜は浩平がかすかに笑ったように感じた。

 急に浩平が大きなため息をついた。そして怖い目で睨みつける佐々木を尻目に、小指を耳に突っ込んで耳かすをこすり取り始めた。そして、人を小ばかにしたような口調で

「じゃ、その人生も社会も何も知らない、ただの青二才が今回の事件を起こして僕らに面倒かけてるってことですか」と言い捨てた。

 体内の血液が全て逆流したかのように佐々木の顔が一瞬にして真っ赤になったが、浩平は気に留めるようすもなく言葉を続けた。

「ちなみに、あなたも内藤ゼミでニーチェを勉強したようだけど、ああいう独りよがりな思想をどう思うのかな?」

 佐々木は小刻みに体を震わせていたが、内部からほとばしる衝動をようやく抑えたらしく、物凄い微笑を浮かべた。

「よく拓己と話したもんですよ。警察ほどくだらない組織はないってね。一般市民には威光を笠に着て偉そうに法の番人気取ってるくせに、実際、やってることはひどいのなんのって。超人ってのは、あんたらみたいな権力に頼らないと何一つできない、そんな人間には決してなるな! 自分の力で道を切り開けっていう本当の強者のための思想なんですよ」

「そういうあなたは、自分の力で道を切り開いているの?」

 浩平は小指の爪にたまった耳かすを見ながら独り言のように言った。佐々木はしばらく押し黙ったまま鬼気迫る形相で浩平を睨み付けていたが、突然体全体がしぼんだようになった。そして微かな声でつぶやいた。

「……俺はツァラトゥストラにはなれなかったんだ」

 

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