陽射しが強く照りつける中、今日もたくさんの人が街を歩いていた。バッグを下げて町を闊歩するサラ―リマン、ウィンドーを眺めながら楽しそうに談笑するカップル。リュックサックを背負って軽快に自転車を走らせる学生。いつもと変わらぬ風景がそこにあった。
「不思議ですね」車を運転しながら桜がなんとなしにつぶやいた。
「何が」窓の外を眺めていた浩平が無造作に答えた。
「だって、テレビや新聞はツァラトゥストラ一色だってのに、街は平穏そのものだなと思って」
「あいつらが異常なんだよ」浩平が苦々しく言い放った。
「先輩は大のメディア嫌いですからね」桜は苦笑した。
「褒めてもらって光栄だね」浩平は嫌味を込めてそう言うと、さらに語気を強めた。
「だいたいあいつらは、社会のあり方を決めるのは政治家でも国民でもなく自分たちだと思ってやがる。だから、自分らに都合の良い声はバンバン報道するくせに、都合の悪い声は無視して恬然としてる。世論は自分たちで作るものだと思ってやがるのさ」
「相変わらず散々ですね」桜は苦笑した。
「――まあ、マスコミを増長させてきた責任は俺たちにもあるんだけどな」浩平は苦々しく言った。
「どういうことですか?」
「いや。ほとんどの人間は自分で何かを判断するってことにおじけづいてしまうもんなんだよ。それより誰かの言うことに黙って頷いている方が楽だろ。仲間外れになることもないしな。だからマスコミの言うことに簡単に誘導されてしまうんだよ。で、結局自分で考えることをやめてしまうんだ」
「まあ、確かにいろんなことを調べて自分で考えるのは大変ですもんね。その点マスコミは一応、いろんな情報を持ってますから説得力もありますしね」
「ただな、あいつらの持ってる情報なんてものは実はたいしたことないんだぞ。昔は新聞やテレビなんかなくたって生活できてたろ。だけど大事なことは何かってことは体に染みついていた。そうじゃないか」
「ツァラトゥストラ自身は、どう思っているんでしょうね。メディアを利用するってことはメディアの価値を認めているんですかね」
「それはどうかな」浩平は冷たく答えた。「まあメディアの価値を認めているかどうかはともかく、メディアの影響力を認めていることは確かだろうな。メディアを使って自分の思想をまき散らそうと考えているんだからな」
「でも、確かにネットでは大騒ぎになってますけど現実にはなんの影響も与えてないと思いますよ。ここにいる人たちだって、ツァラトゥストラのことなんて何にも考えてないと思うし」桜はハンドルを握りながら、街を歩く人々を見渡した。
「いや、人間なんてのはふとしたことでどうにでも変わるもんだ。ありふれた生活を送っているやつが、明日には殺人鬼にだってなりえる。こいつらだって明日には何をするかわかったもんじゃない。現に昨日だってごく普通のサラリーマンがいきなり上司に向かってナイフを振り回して取り押さえられたって事件があったそうじゃないか」
「あれは、ツァラトゥストラが原因ってことですか?」
「さあな。だが肝心なのはメディアがこぞって犯行の動機をツァラトゥストラに関連付けて報道してるってことだ。そういうニュースが溢れてくれば、感化される人間が出てきたっておかしくない。そしてそういう事件が次々に起これば、人びとは現在の社会体制に不安や不満を感じ始める。もしかすると本当に社会が変わる可能性だってありえるんだ」
「確かに先輩の言うことも分からなくはないですけど、私にはツァラトゥストラがそんなことまで狙って行動しているとは思えないな。やっぱり、自己中心的で目立ちたがり屋の単なるいたずらに過ぎないと思いますよ」
桜の言うことは浩平にもよく分かっていた。世間を騒がせて快感を得たい単なる変質者の犯行だと思いたかった。だが、どうしても浩平はあのビジョンをぬぐい切れないでいた。人類の歴史が示すように混乱と破壊無くして新世界の創造はありえないとしたら、人間が本当に覚醒するためには犠牲と流血が必要だとしたら――突然、浩平はあることに気づき愕然とした。エアコンが効いているにも関わらず、ねっとりとした嫌な汗が体中から噴き出し下着を濡らした。
自分はツァラトゥストラと名乗る狂人の思考を読み取ろうとしていたはずだった。しかし、その対象がいつの間にか別なものにすり変わっていることに気付いたのだ。自分が必死に覗き込もうとしていたのは、自分自身の中に潜む闇であった。
「――大丈夫ですか」桜が心配そうに声を掛けてきた。「先輩、ちょっと疲れているんじゃないですか? 顔色もあんまりよくないし」
「……大丈夫だ、ちょっと考え事をしていただけだ」浩平の顔色は明らかに青ざめていたが心配は無用とばかりに手を振った。そして周りを見渡すと、「着いたようだな」と小さくつぶやいた。浩平と桜は再び上條のアパートを訪れていた。