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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(二十三)

 上條は初めて会った時と同じような穏やかさで二人を中に招き入れた。

「汚いところですが、どうぞ中へ」その声には警察に対する怯えとか恐怖といった反応は一切感じられなかった。桜は室内に入ると、ざっと部屋を眺め渡した。シンプルな木製のテーブルが部屋の中央に置かれ、その脇には一人掛けのソファーが据えられていた。他には小さなテレビとオーディオコンポが目につくくらいで、室内は綺麗に片づけられていた。

「どうぞ、ここに座ってください」上條は置いてあったソファーをどけると浩平と桜に声をかけた。

 浩平は軽く礼をいいながらその場に座り、今日の来訪の用向きを話し始めた。

「お時間をとらせてしまってすいません。御存じのことと思いますがツァラトゥストラと名乗る人物がテレビに声明文を送りつけてきました。おかげで新聞やテレビは連日大騒ぎで犯人はツァラトゥストラにかぶれた狂信者だとか、社会から疎外された若者だとか、警察そっちのけで犯人探しにやっきになっています。私としてはあんな連中の言うことには何の興味もないんですが、上條さんの意見だけはお聞きしたいと思って伺った次第なんです」

「どうして私の意見を」落ち着いた声で上條が尋ねた。

「上條さんは既にこの分野の第一人者と伺っていますし、今回の事件は上條さんが受講したゼミの教官だった内藤さんと同じゼミ生だった宮澤さんの不審死に関わるものですから」

「何を聞きたいんですか?」

「犯人の声明を聞いて、上條さんがどう思ったかお聞きしたいんです。犯人の思想についてどう感じられたかを……」

 浩平は黙ってこちらを見つめている上條を見つめ返した。どういうふうに受け止められたか分からなかったが、上條という男の本質に触れるためには直接ぶつかってみるしかなかった。

「宮城さんと言いましたか、失礼ですがあなたはツァラトゥストラをご存知ですか?」

「学生時代に少しかじった程度ですが、ある程度は知っています。この事件のあと書棚に埋もれていた文庫本を引っ張り出して読んでみたりもしましたし」

「それじゃ僕が話す前に、あなたがツァラトゥストラの思想をどう思っているのか聞かせもらえませんか」上條は微笑みながら言った。

 浩平は困ったように頭を掻いていたが、覚悟を決めたように話し始めた。

「上條さんの前でツァラトゥストラを語るなんてのはおこがましい限りですが、せっかくのお尋ねですので思ったところを述べたいと思います。実のところ大学時代はかなりニーチェに傾倒してましてね、若さからくる反発と言ったらいいのか、超人思想に妙にシンパシーを感じたものです。実際今でも共感できるところがありますよ。既に三十を過ぎたおっさん予備軍ですが、まだ少し血気盛んなところもあって社会に対していろいろと思うところがあるもので。ただ年を取るにつれて、何か違うんじゃないかと思うようになりました。うまく言えないんですが、僕にはこれは正しい思想ではないような気がしたというか」

 浩平の言葉を聞いていた上條がゆっくりとしゃべり始めた。

「ツァラトゥストラの思想とは作者であるニーチェの声なんです。ニーチェが人生の中で悟り得たものが表現されているんです。刑事さんはニーチェ本人じゃないですよね。だから、完全に共感できないのは当たり前なんです。哲学っていうのは多かれ少なかれ、そういう性質を持っているんです。確かに哲学とは普遍の真理を探求する学問ですが、ご存知のとおり哲学者と言われる人たちが言ってきたことはてんでバラバラです。その中に本当の真理というものがあるのか、それとも普遍の真理なるものはまだ語られていないのか、それすらも定かじゃありません」上條はそこで言葉を区切ると、突然浩平に問うてきた。「宮城さん、あなたは普遍の真理というものがもしこの世界に存在したとして、それを理解できると思いますか?」

 上條の口調には、なんら重々しいところはなかったが、浩平はその問いを聞いて答えに窮した。

「おかしな質問をしてすいませんでした」そう言うと、上條は軽く頭を下げた。

「僕が言いたかったのは、普遍の真理なるものがもしこの世にあったとしても、おそらく多数の人間はその存在を感知できないし、その意義も理解できないだろうということです」上條はそう言うと、そのまま押し黙った。

 浩平は上條の言葉を噛みしめるように繰り返し、ようやく上條が何を言わんとしているのかを理解した。浩平と上條はじっと黙って見つめ合った。

「……つまり、限られた人間だけしか真理を理解できないということですか」長い沈黙の後、浩平がようやく声を出した。

「そうです」

「なぜです。普遍の真理ってのは万人が理解できるものじゃないんですか」

「宮城さん、あなたは本当に人類全てが真理というものを理解できると思っているんですか」口調は柔らかだが、浩平は上條の言葉に威圧された。

「僕は真理を理解するにはある種の資格が必要だと思っています。なぜなら真理というものは理屈じゃないからです」

「資格?」

「ええ資格です。それは真理に至ろうとする強い意思です。それを持ったものだけが、真理に触れることができるんです」

 力強く語る上條を見て浩平はふっと息を吐いた。「上條さん、あなたは真理が存在すると信じているんですね」

「ええ、信じています」そう言うと上條はにっこり微笑んだ。

「なぜですか、なぜそんなことを信じられるんですか」思わず浩平は声を上げた。

 上條はまるで物分かりの悪い生徒に教え諭す教師のように柔和な表情を浮かべた。

「なぜって、僕たちはこの世界に真理がある証拠を日々目にしているじゃないですか。可憐に咲き誇る花々、新緑の息吹、黄金の稲穂、川のせせらぎ、天空に聳える山々、宇宙にきらめく星々、鳥や獣たちの命を懸けた日々の営み、そうしたものに対して僕たちは美しいと思ったり、心の底から感動したり、畏敬の念を感じます。感じ方の差はあれ、僕らはそういう風に感じることができるじゃないですか。この世界を美しいと僕たちは感じることができる。それこそがこの世に真理があるという全き証明だと思いませんか」上條の目は輝きを増していった。「もし真理が存在しないとしたら、この世はなんの意味もない世界ということになります。あらゆるものが役割を持ち、密接に絡み合い、信じられないほど精巧で神秘に満ちたこの美しい世界が全くの偶然でできたただのガラクタだってことになります。そんなことがありえると思いますか。そんな馬鹿げたことが許されると思いますか」上條の声は確信に満ち、その表情は神々しいばかりに光輝いた。「この世界には意味がある。人間が生きることには意味がある。僕はそう信じているし、そうでなくてはならないんです」

 

美しい自然

 

 上條の言葉を聞いていた浩平が叫んだ。

「上條さん、あなたは真理は存在すると信じている。だがその真理は一握りの人間しか解き得ないとも言ってる――でもそれじゃ、真理にたどりつけないごく普通の人間はどうしたらいいんですか。真理を知ることもできず、ただ虫けらのように生きろと言うんですか」浩平のその問いは刑事というよりもまるで一人の人間として問うているかのようであった。

 上條はそんな浩平をじっと見つめた。

「僕はさっき真理に至るためにはある種の資格が必要だと言いました。真理に至ろうとする強い意志を持たなければ真理を理解することはできないと。でも僕の言う資格というのはできるとかできないとかそういう才能のあるなしじゃないんです、真理にたどりつきたいという強い意志を持てるかどうかということなんです。確かに人類全てがその資格を持つことができるとは思っていません。だが資格を持たないものは、自ら放棄したが故に資格を持たないのです。完全に至ろうと欲しないから不完全なままであらざるをえないのです」

「でも宇宙には真理が存在するんでしょう。あらゆるものが美しい調和のもとに完全なものとして作られていたなら、なぜ人間だけがそんな不完全な状態にあるんですか。なぜ人間だけが善と悪の両面を持ち、正しいことと正しくないことの狭間で悩む中途半端な生き物として生まれてくるんですか」

「それは僕にも分かりません。でも僕は人間が不完全な状態で作られたことには深い意味があるような気がするんです。もしかしたら、完全な状態にあることよりも完全に至らんとする意思こそが、最も大事なことなんじゃないでしょうか。そう考えると不完全な状態にあることは罰ではなく贈り物なのかもしれない。人間だけが唯一自分の意志で完全なものに移り行けるんです。自分の意志で真理に触れることができるんです。それはなによりも素晴らしいことじゃないでしょうか」

 上條の言葉を聞いていた浩平の心にはある種の満足感が生まれていた。それは上條の答えに満足したというよりも自分と同じような疑問を心に持ち、それを問い続けてきた人間に初めて巡り合えた満足感に他ならなかった。

「……上條さん、あなたならいつか真理に到達できますよ」浩平が少し微笑みながら言った。

 

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