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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(二十四)

「宮城さん、あなたが何のために僕を尋ねてきたのか薄々は分かっています。そしてそんなあなたにこんなことを言うのは少しおかしいですけど、あなたは僕たちと同じです。そして、僕はあなたと話をするのは、そんなに悪い気分じゃないです」そう言って上條も静かに微笑んだ。

「さきほど、あなたはツァラトゥストラの思想は真理ではないんじゃないかと言いましたね。それも又あなたが生きてきた中で得た悟りです。それは誰がなんといおうがあなたにとって一つの真実なんだと思います。何が正しいことなのか、それは誰にも分からないし、そんなに大したことじゃない。本当に大事なことは、僕たち一人一人が正しいと思えることを追い求め続けることなんだと思います」

「上條さんにそう言われると、なんだか自分の生き方を肯定されたみたいでとてもいい気分になりましたよ」

 浩平は上條と対峙して初めて本当の自分を曝け出すことができたと感じていた。それは自分の職務にとって必ずしも必要なことではなかったのかもしれない。しかしそれなくして上條を理解することは決してできないと感じていたのだった。

 浩平は座りなおすと背筋を伸ばした。

「上條さん、あなたが思っているとおり、我々はあなた方内藤ゼミの誰かが今回の事件を起こしたと考えています。改めて伺いますが、そういう人物に心当たりはありませんか?」

 さきほどまでの和やかな空気は一瞬にして消え去り、張り詰めた空気が場を支配した。

「あなたがたが僕たちを調べているのは当然だと思います。ただこれだけは言っておきたいと思います。宮澤先輩にあんなことをするような人間は内藤ゼミには一人もいません。おそらく他のみんなもいろいろと調べられているんでしょうけど、みんな無関係です」

「あなたはどうですか」

 浩平の一言に上條は一瞬口ごもった。その様子は何かを必死にこらえているように見えたが、しばらくして「僕も関係ありません」と小さくつぶやいた。

「そうですか。ところで一つお聞きしますが、あなたが指にはめている指輪は宮澤さんが愛用していたものじゃないですか」浩平は上條を見据えて言った。

 上條はしばらく黙っていたが諦めたように、「ええ、確かにこれは宮澤さんからもらったものです」と静かに答えた。

「いつ、もらったんですか」

「だいぶ前に会った時に僕にくれたんです」

「それはいつ頃のことですか」

「……一年くらい前だったと思います」上條が小さく答えた。

 浩平はそんな上條をじっと見つめていたが、この件についてはそれ以上尋ねなかった。

「ところで最初にお尋ねしましたが、あなたはあの声明を聞いてどう思いました?」

 上條は覚悟を決めたようにすっと背筋を伸ばした。「そうでしたね。それじゃ僕が感じたことを言います。僕はあの思想に共感を覚えました」

「じゃ、あの思想は正しいと?」

「宮城さん、さきほども言いましたが、ある人間が語る思想が正しいか正しくないかは常人には判断できないし、もし仮にそれが正しいとしても、それを一般論として他者に証明することはできないと僕は思っています」

「私が聞きたいのは上條さん、あなたはあの思想を正しいと感じているのかってことです」

 浩平の問いを聞いて上條は不敵に笑った。

「宮城さん、僕があの言葉を聞いて一番関心を持ったのはなんだと思います。あの思想が正しいか正しくないかなんてことはどうでもいいです。哲学的背景だとか、ニーチェ思想との関連だとか、そんなことにも全く興味ありません。僕の唯一の関心事は、あの思想を語った人間はそれを実現するだけの力があるのかどうかということだけです」

「それじゃ、あなたも社会を破壊することに関心があるということですか」浩平は冷ややかに尋ねた。

「それは飛躍しすぎじゃないですか」上條は浩平を見て口元を緩めた。

 浩平は上條に笑われたような気がした。顔に血が昇ってくるのを感じたがなんとか平静を装おい話題を変えた。

「ところで上條さんは大学を四年で卒業されていますが何か理由でもあったんですか。周囲の方々に聞くと、あなたは非常に優秀だから大学院に進んで研究者の道に入るものと皆さん思っていたようですが」

「その質問は答える必要がありますか」上條の顔から笑みが消え、浩平を見つめる目つきが険しくなった。

「答えたくないなら無理にとはいいません」

 浩平と上條はしばらく見つめ合っていたが、上條は諦めたように小さく息を吐いた。

「完全に個人的なことです。僕は片親でずっと母親と二人暮らしだったんです。その母親が大学三年生のとき亡くなりまして……だいぶ苦労したものですから……母親が生きていたら、もう少し違う道を選んでいたのかもしれません」上條は言葉を切った。そして少しの沈黙の後、再び話し始めた。

「大学に入るまでは経済的にも結構大変だったんです……母親は苦労のしどうしでした……大学に入ってからは奨学金とバイトでなんとか自分の面倒は自分でみれるようになったのでだいぶ楽になったんですが、逆にそれが母親にとってはよくなかったのかもしれません。自分の義務を果たしたみたいに思ったのかもしれません。そんなこともあって、このまま大学院に進んで勉強を続けるっていうのがどうにも自分の中で納得できなくて、といって、社会に出て働くという気にもなれなくて――なので今は大学時代にやっていた家庭教師のバイトを続けてなんとか暮らしています。母親の生命保険も受け取ったので、食べていくだけはなんとかやれています」

「大変、失礼なことをお聞きしました」浩平が神妙に言った。

「そうですか。僕のことを優秀だって言っているんですか、みんなは――とんでもないですよ、優秀どころかできそこないですよ。いまだに働きもせず、ぶらぶらしているんだから」上條は自嘲気味につぶやいた。

 その様子を見て、今まで黙って二人の会話を聞いていた桜が横から口を挟んだ。

「八月二十四日の晩は佐々木さんのアパートに泊まったということでしたが、その前後のことを教えていただきたいのですが」

「アリバイ確認ですか」上條は薄く笑った。「さっきバイトをしているって言いましたが、何人か受け持っていて、結構忙しいんですよ。二十四日は、午後の四時から六時まである生徒さんのところで家庭教師をしていました。その後電車に乗って御茶の水駅で田口と待ち合わせて先輩のアパートに行きました。翌日は九時頃に先輩の家を出て、家に戻ってシャワーを浴びてから、この近くの児童養護施設に顔を出しました。施設に着いたのは十二時頃だったと思います。こっちはボランティアで参加しているんです。自分も女手一つで育てられたので、少しでも力になりたいと思って」

 上條の供述内容を手帳に書き留めながら桜が再び尋ねた。「ありがとうございます。ちなみに八月十日はどちらに?」

 上條は立ち上がり、奥から携帯サイズの手帳を持ってきた。「えっと、その日はちょうど岩手の実家に帰っていました。八月七日にあちらに戻って、東京に帰ってきたのは八月十七日です。母親の三回忌法要をうちうちで済ませてきたんです。実家にはもう誰もいませんが、叔母が近くに住んでいるので、そこにずっと泊めさせてもらいました」

 桜はバイト先の生徒の住所と名前、親戚やお寺の連絡先を次々に書き留めていたが内心では脱力感を感じていた。やっぱりこの人には完全なアリバイがある。

 

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