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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(二十五)

 児童養護施設『チャイルドケアホーム』は上條のアパートからほど近いところにあった。アパートを出た二人は一応上條のアリバイを確認するためにこの施設を訪ねていた。

 児童養護施設とは保護者のいない子供や親と暮らすことのできない子供たちが生活するために設置されている施設で全国に五百以上設置されており、二万人を超える子供たちがそこで生活していた。そして、その半数以上の子供が親からの虐待を受けて保護されてきたものたちだった。

「お待たせしました」

 そう言って応接室に入ってきたのは紺野千恵子という五十代半ばの女性だった。彼女が差し出した名刺には所長という肩書が記載されていたが、エプロン姿の紺野は少しも施設の責任者には見えず、いかにも田舎の母親を思わせる人の良さそうな顔立ちをしていた。

「上條君のことで何かお聞きになりたいことがあるとか?」儀礼的な挨拶がひととおり済んだのち、紺野所長がおずおずと切り出した。

「実はある事件を調べていまして、その関係で八月二十五日の午後に上條和仁さんがこちらでボランティアをされたかどうか、その事実確認をしたいと思いまして」浩平が申し訳なさそうに言った。

「例の事件ですか」

 紺野所長は一瞬顔を曇らせたが、すぐに隣の事務室に声を掛けるとそこにいた職員にファイルを持ってこさせた。

「これはこの施設の業務日誌です。日誌にはボランティアに来てくれた人たちの参加時間や活動内容も書かれていますので、どうぞご覧ください」そう言うと、紺野所長は八月二十五日のところを開いて二人に手渡した。

 二人はファイルを受け取ると顔を並べるようにしてそのページを覗き込んだ。日誌の頭には八月二十五日と日付が記載され、その日の活動内容や特記事項などがこまごまと書かれていた。下の方に目を移すとボランティアという項目があった。そこには『上條和仁 十二時~十五時 入所者との交流支援』と書かれていた。

「この日は私も出勤していましたから、上條君が施設に来てくれたのははっきり覚えています。いつもと同じように子どもたちと楽しそうに遊んでいましたよ」紺野所長が止めをさすように言った。それでも浩平と桜は何かからくりがあるのではないかと何度も日誌を見返していたが、結局諦めたように紺野に向き直った。

「上條さんは、いつからここでボランティアをされているんですか」浩平がお茶に手を伸ばしながら尋ねた。

「そうね、だいぶ昔から来てくれているけど――そうそう、彼が大学生に入ってすぐの頃じゃなかったかしら」

「そんなに前からですか」お茶を飲もうとしていた浩平がびっくりしたように言った。

「ええ。今と同じで線が細くて華奢な子でね。でも、なにか惹きつけられるような不思議な魅力をもった子でした」紺野所長は、まるで我が子の幼少時を思い出すように目を細めた。

「それから毎週必ず一度は顔を出すようになってね。夏休みには週に二度も三度も来てくれるんですよ。だから子ども達にも好かれてね。彼が来るとみんな喜んで集まってくるんですよ」紺野所長はにこやかに笑った。

「彼はここではどんなことをしているんですか?」浩平が湯呑茶碗を戻して尋ねると、紺野所長は居住まいを正し切々と話し始めた。

「この施設では両親がいない子供や親からの虐待を受けた子供たちが生活しています。本当だったらたくさんの愛情を受けて育つべき子供たちが愛情とはなんなのかも知らず、心に深い傷を負って施設に入ってくるんです。そういう子どもたちにとって一番大事なことは自分は愛される存在なんだと感じてもらうことなんです。そうして愛情を感じることのできる人になってもらいたいんです。だから私たちの施設では職員だけはなくてボランティアの方々にも協力願って、子どもたちが少しでも多くの人とふれあえるようにしています。ボランティアの仕事はいろいろとあるんだけど、上條くんにはうちの職員と同じように子どもたちと遊んだり、話し相手になってもらっていました」そこまで言うと紺野所長は深いため息をついた。「でも、どうしてなんでしょうね。施設に入ってくる子供の数ってどんどん増えているのよ。この施設ばかりじゃなくて、全国的にこういう施設に入る子供たちが増加しているの。上條くんみたいな人が世の中にはたくさんいるのにね……」

 浩平と桜は言葉を返すことができなかった。残酷な現実と日々向き合っている紺野所長の前で空々しい理屈など言えるはずもなかった。三人の大人がそれぞれ何かを思うように押し黙り、応接室は静けさに包まれた。遠くの方から子どもが楽しそうに騒ぐ声が聞こえてきた。その声は三人の思いをさらに奥底に沈めるようにもの悲しく響いた。

「――たった一人であっても、子どもが苦しむようなことがあってはならない。そういう社会は正しくない」唐突に紺野所長が詩でも朗読するかのようにつぶやいた。

 浩平と桜が顔を上げると紺野所長は少し顔を赤らめ「あら、ごめんなさい。これね、前に上條君が独り言のようにつぶやいていたものなの」と言った。

「彼がそんなことを」

「ええ、上條君は子どものことになると怖いくらいに真剣になるの。特に虐待やいじめの話になると、なんとも言えない表情になってね、震えるような声でさっきみたいなことを言うのよ。きっとあの子は子どもが苦しんでる姿を想像するのが耐えられないんでしょうね。昔のことは言わない子だけど、きっとあの子も大変な苦労をしてきたんだと思うわ」

 その言葉は浩平の脳内に上條の姿を呼び起こした。自分で言っていたとおり、あいつが母子家庭でだいぶ苦労してきたのは確かなのだろう。周りの子どもたちが味わうごく普通の幸せすら、彼にとっては遠い世界の出来事だったのかもしれない。社会とはなんなのか、幸せとはなんなのか、生きるとはなんなのか、彼が学問という枠を越えて、その意味を突き詰めようとしているのは、この不条理で過酷な世界の実態を無防備で汚れを知らない幼少時代に既に悟ってしまったからなのかもしれない。今この瞬間にも苦しみにあえぐ子どもたちがこの世の中に実在する。その現実をテレビや新聞を通してではなく、まさにナイフで切りつけられるように知覚しているからこそ、あいつは一刻も早い変革を求めているのかしれない――それが破壊や流血を伴うものであったとしても。

 

孤独な少女

 

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