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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(二十六)

 話を終えた浩平と桜はせっかくだからという紺野所長の誘いもあり、施設の中を案内されていた。明るい光が差し込む木造の建物は暖かい空気に満ちていた。ホールでは子どもたちがスタッフと積み木をしたり、絵を書いたりして遊んでいた。

 

保育園

 

「うちではボランティの方にもあんな風に子供と接してもらっているの。そうしないと子どもの方がすぐ見破っちゃって打ち解けなくなるの。子どもって、大人が思っている以上に感性が鋭いものよ」紺野所長が微笑んだ。

 桜は一人の女の子がずっとこちらを見つめていることに気づいた。その子は他の子どもたちが集まってブロックで遊んでいるところとは少し離れたところで一人椅子に座り本を読んでいたのだが、桜たちがホールに入ってくると誰かを物色するかのようにじっとこちらを見つめていたのだった。

「どうしての芽衣ちゃん」紺野所長もその子に気づくと手招きしながら優しく声を掛けた。

 芽衣と呼ばれたその女の子は恐る恐る三人のところに近づいてくると、浩平の顔をじっとみつめ「かずちゃんが来たのかと思ったのに」と明らかにがっかりした様子で言った。

「かずちゃん? かずちゃんは今度の日曜日に来るって言ってたよ」紺野所長がなだめるように優しく言った。

「ほんと?」

「ほんとよ。かずちゃんは、嘘をついたことはないじゃない」

「そうだね。かずちゃんは芽衣との約束は必ず守るのよ」そう言うと、黄色の長そでシャツに赤いズボンをはいた可愛らしい女の子は、「私、かずちゃんが大好きなの。だって私のこと、とっても可愛いって言ってくれるのよ」と幸せそうに付け足した。

「かずちゃんってのは、上條君のことかい」浩平は芽衣と視線を合わせるようにしゃがみこむとぎこちない口調で声を掛けた。

 芽衣は不安そうに顔を強張らせたが、うんと小さく頷いた。

「おにいさんは浩平っていうんだ。よろしく」浩平は真面目くさってそう言うと片手を差し出した。

 芽衣はしばらく躊躇していたが、ゆっくりと片手を差し出した。浩平は芽衣の小さな手を取ると、まるで大人同士のようにしっかりと握り何度も大きく上下に振った。芽衣は黙ってされるがままにしていたが、しかめっ面して何度も手を上下に振る浩平が気に入ったらしく、少しはにかんだように笑った。

「芽衣ちゃんはかずちゃんが好きなんだ。でも、おにいさんもなかなかいいやつだぞ」

「おにいさんもなかなかいい人だけど、かずちゃんには勝てないわ」

 二人の会話を聞いていた桜は、思わず含み笑いをした。

「そっか……そりゃ、悔しいな……じゃ、おにいさんもかずちゃんに負けないくらいここに来るから、そのときは遊んでくれよ」

 浩平の顔は真剣そのもので、まるで上條と一人の女性を奪い合っているかのようだった。

「ほんとに来る?」

「ほんとだよ。おにいさんも嘘はつかないよ」

「絶対だよ」

「ああ、絶対だ」浩平は力強くそう言うと小指を差し出した。

「嘘ついたら針千本飲むんだよ」芽衣も小指を差し出すと、二人はしっかりと見つめ合いながら指切りげんまんをした。そして急に恥ずかしくなったのか、芽衣は浩平に手を振って、もとの場所に走っていった。

「先輩、可愛い女の子に好かれたみたいで良かったですね」桜がからかうように言った。

「ほんとにね。でも珍しいんですよ。あの子があんなに打ち解けるのは」芽衣と浩平のやり取りをにこやかに見守っていた紺野所長も浩平に話しかけた。「あの子は、あんまり人と話をしないんですよ。あの子とうまく話せるのは上條君くらいじゃないかしら」

 浩平は立ち上がって、一人で本を読み始めた芽衣をじっと眺めた。黙ったまましばらく芽衣を眺めていたが浩平だったが、唐突に紺野所長の方を振り向いた。

「――所長さん、聞いちゃいけないことなのかもしれませんが、あの子の腕の火傷の痕はなんですか?」

 浩平の顔はさきほど芽衣と話していた時とはまるで違う鬼気迫るものに変わっていた。

 紺野所長はしばらく絶句していたが、浩平の厳しい視線に耐えかねたように、本当はいけないんだけどと前置きしながらも訥々と語りだした。

「あの子は今七歳なんだけど、五歳のときにここに入ってきたの。あの子の母親は十九歳であの子を生んだんだけど相手ともうまくいかなかったみたいで、すぐに別れちゃったみたいなの。それで結局、母子二人で暮らしてきたんだけど、母親もまだ若いでしょう、遊びたい盛りだから育児が二の次になっちゃうこともよくあったみたい。それでも、まずなんとか暮らしてたんだけど、ちょうど芽衣ちゃんが五歳になる頃に母親がある男と同棲を始めたのね。でもその男がひどい人でね……」そこまで言うと紺野所長が口を閉じた。体の中に生じた感情を押し殺すのに必死になっているようだった。紺野所長が何度も次の言葉を喉から絞り出そうとしているようすが窺えたが、浩平と桜は緊迫した面持ちで紺野所長の言葉を待っていた。

「……その男は、継子の芽衣ちゃんを目の敵にしてね……芽衣ちゃんの態度が気に入らないと、すぐに怒り狂って折檻したの……あの子の火傷の痕は、躾けと称してタバコを押し付けたその痕なの。その痕が腕や背中やお腹にたくさん……」声を絞り出すようにそこまで言った紺野の眼は既に真っ赤になっていた。

「母親は芽衣ちゃんを守ってあげられなかったんですか!」耐えかねたように桜が声をあげた。

「それが……母親の方も男の機嫌を損ねるのが怖くて、一緒になって折檻したようなの……母親が体を押さえつけて……男がタバコを押し付けて……」

 紺野所長の言葉を桜はまともに聞くことができなかった。どす黒い感情が胸の中を広がっていくのを如何ともしがたく、全身から力が抜けていくのを感じた。

 あの女の子はどんな思いでその折檻を耐えていたのだろう。この世の中で唯一無条件に信じることのできる存在であるはずの母親が見ず知らずの男と一緒になって自分を折檻する。あの子の小さな胸をどれほどの絶望と悲しみが覆い尽くしたことだろう。

 呆然としてうつろに泳いでいた桜の目に何か動くものが入った。無意識にその動くものに目をやると、それは隣に立っていた浩平の拳だった。その拳は小刻みにゆれていた。よく見ると拳だけではなく腕も体も震えていた。桜は何か怖いものをみるような思いで浩平の顔を見上げた。そこで桜が見たものは、いつもの浩平とは全く違う怒りに充ちた鬼神のような顔であった。体中の血液が全て集まったかのように顔は真っ赤に染まり、眼は張り裂けんばかりに大きく見開いていた。頭髪は逆立つようにそそりたち、体全体を陽炎のような怒気が覆っていた。桜は、しばらくの間、その姿を忘れることができなかった。

 

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