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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(二十八)

 テレビではいつものようにツァラトゥストラ事件の特番が放送されキャスターが帝西大のなんとかという教授に質問をぶつけていた。

 

ニュース番組

 

『そうすると、ツァラトゥストラを自称するこの人間は実はニーチェの思想を全く理解していないということですか?』

『そのとおりです。そもそもあの声明文なるものは思想なんてものじゃないですよ。単なる狂人の戯言ですよ。例えばね社会が腐りきってるからぶっ壊そうとか、周りの人間は虫けら以下だとか、超人たる自分が社会を導くとか言ってるわけですけどね、超人思想の本質を理解していないからそんなことを言うわけですよ。つまりこの人間はニーチェの思想の上っ面しか汲み取っていない浅薄な人間の一人ということですかね』

『超人思想の本質というと?』

『超人思想っていうのは、もっと人間の内面的なことを言ってるんですよ。そういう高尚な理念をね、社会とか政治とか、そういう下世話なレベルに落とし込んじゃっているわけですよ。いや、こんなことでニーチェの思想が取り上げられるのは本当に不愉快ですよ。これは哲学を学ぶ私たちに対する冒涜ですよ』

 テレビの中で分厚い眼鏡をかけた学者が何かをしゃべるたびに、舌打ちとともに怒鳴り声が室内に響いた。

「はあっ! えらそうに一体お前は何者なんだよ。お前らが理屈ばっかりこねて哲学を小難しくするから、哲学が見捨てられるんだよ」そんな声がテレビの向こう側で響いているとも知らずに、学者は説教面で話を続けた。

『昔からね、ニーチェは社会に適合できないものたちにとって都合のよい思想でもあるんですね。自分が評価されないのは社会がおかしいからだ、周りの人間のレベルが低いからだという塩梅ですよ。うちの大学にもいますよ、ニーチェにかぶれて世の中を拗ねてるようなしょうもない学生が』テレビの中の教授はそう言うとはははと笑った。

「社会に適合できないって、勝手に決めつけるんじゃねーよ! お前ごときがニーチェの何を分かってんだよ。お前みたいなやつが、まさに『学者』なんだよ!」 

 田口は顔を真っ赤にして、テレビを見ていた。最近、盛んに放送されるツァラトゥストラ関連の番組を見るたびに、体温が二、三度上がるほどの怒りを感じ、毎度テレビに向かって喚き散らしているのだった。だが外では決して出せないような大声でコメンテーターや学者たちを罵倒することで、ある種の快感を感じているのもまた事実だった。

『――今回の事件はね、孤独で才能もない青臭い若者が社会の注目を浴びたい一心で起こした、単なる見世物に過ぎませんよ』

 学者が結論付けるように言ったその瞬間、田口はテレビに向かって大声で吠えていた。

「そういうお前こそが無能な目立ちたがり屋じゃねえか!」

 その声は部屋中にこだまし、まるで自分が雄叫びをあげる古代の戦士にでもなったような錯覚に陥らせた。心地よい高揚感とともに喉の渇きを覚えた田口は、冷蔵庫に飲み物を取りに行こうと立ち上がった。

 そのとき、機械的な音が部屋中に鳴り響いた。その瞬間、一瞬にして凍りついたように田口はその場に立ちすくんだ。誰かがインターホンを鳴らしている。もしかしたら自分の叫び声をそいつに聞かれたかもしれない。田口は身動き一つせず、耳だけを動かしてじっと外の様子を伺っていたが、外にいる人間は中に人がいることを確信しているかのようにインターホンを鳴らし続けていた。田口はテレビの電源を消すと恐る恐る玄関のドアを開いた。そこには以前話をした警視庁の刑事が二人立っていた。

「田口さんはツァラトゥストラが出した声明はご存知ですよね」浩平は、不満げな様子でテーブルの向かいに座っている田口に話を切り出した。

「そりゃ知ってますよ。毎日、テレビや新聞で盛んに報道していますからね……」

 桜は部屋の隅に積み重なっている週刊誌の山に目を向けた。一番上に重ねられた雑誌の表紙には、ツァラトゥストラの文字がでかでかと踊っていた。

「今日お伺いしたのは、ツァラトゥストラと名乗る人物が語った声明文について、田口さんの感想をお聞きしたいなと思いましてね。あなたはなんといっても内藤ゼミでツァラトゥストラを学んだ方だし――」

「私が怪しいと思っているってことですか」田口がぼそっと言った。

「いやいや、ゼミ生の皆さん全員に聞いていることですから」淡々と浩平が答えた。

 疑い深い目を浩平に向けた田口はしばらく黙っていたが、ようやく自分の考えがまとまったのかぼそぼそと話し始めた。

「そうですね。素直に言いますけど彼の言い分は至極正しいと思いますね。だってそうじゃないですか。この世の中、くだらない人間が多すぎますよ。実際、日本って国は腐り切ってますよ。そういう意味では社会の変革を訴えるツァラトゥストラなる人物には大いに拍手を送りたいですね」

「田口さんはツァラトゥストラにだいぶ共感されているようですね」

「ええ、それは否定しませんよ」

「内藤ゼミの皆さんは、みんな田口さんのような考え方なんですかね?」

「哲学はもっと内省的で形而上的であるべきですか」田口が薄ら笑いを浮かべた。「まあ、一般の人は哲学をそんな風に捉えてるんでしょうね。だけど、そんなものが一体なんの役に立つんですかね。現実の世界に影響を与えない学問になんの意味があるんですか。僕たちは、そんな理屈だけの哲学じゃなくて、生きた哲学を探ろうとしたんです」

「上條さんも似たようなことを言ってましたよ。生きる意味を知るために哲学を学んだと」

 田口は相好を崩した。

「あいつは僕と同じ考えを持ってますからね。まあ、ゼミ生の中でも僕らくらいなもんですよ、そこまで真剣に哲学を語り合えるのは」

「あれっ、おかしいな。佐々木さんの話だと、上條さんは宮澤さんと仲が良くて、本当に互いを理解しあっていたのはあの二人だと言ってましたけど」いかにも芝居がかったように言った浩平の一言は、田口の顔を一瞬にして凍り付かせた。

「ああ、そうだ。あなたのことは上條くんにくっついているだけの小心者だと言ってましたよ。あの人も結構ひどいこと言いますね」浩平は追い打ちをかけるように言い足した。

 田口の顔色は真っ青だった。口元がガチガチと鳴り体も震えていた。屈辱と憎悪を顔中に浮かべたその顔は奇形者のようにも見えた。

「……あんな負け犬……」

「はい?」

「あの佐々木ってやつこそ、小心者ですよ。えらそうなこと言ってたわりに、社会に出た途端、急に弱腰になって情けないったらありゃしない。あいつこそただの負け犬ですよ。ほんと、ああいう奴が最低なんです」田口の言葉には明らかに憎悪が込められていた。

「佐々木さんはそんな人だったんですか、いや、人は見かけによらないな。それじゃ宮澤さんはどうなんです?」浩平は田口の感情に全く気付いていないかのように尋ねた。

「宮澤も同じですよ。だいたい哲学専攻してるのにIT企業に就職ですよ。全然自分の学問を活かしてないじゃないですか。しかも社会がおかしいだの、制度が悪いだの言ってたくせに、特許制度を利用して金儲けしてたんですよ。最悪だと思いませんか。で結局何も変えられないままあっけなく死んでしまうんですから笑っちゃいますよ。所詮凡人だったってことじゃないですか」と苦々しく言い放った。

「じゃ、上條さんは?」

 突如、田口の目に青白い妖気のようなものが浮かんだ。

「……上條だけですよ。本物は」

 

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