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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(三十二)

――ツァラトゥストラの予告

 吐き気のする社会に蠢く、傲慢で欲深い環虫どもよ。お前たちと同じ空気を吸っていると思うだけで我慢ならない嫌悪感に襲われ、吐き気を催す。そして、ツァラトゥストラの爪カスほどの価値もないくせに、我こそがツァラトゥストラだと吹聴している屑どものなんと多いことよ。貴様らこそが駆逐されるべき汚物なのだ。偉大なるツァラトゥストラの道を理解できない馬鹿どもが毎日毎日くだらない犯罪で世間を騒がせているが、もはや忍耐の限界だ。お前たちは何も分かっていない。超人に至るには血を流すことが必要だということを。血を流すものだけが新たな地平に立つことができるのだ。
 私は、物覚えの悪いお前たちのために今一度超人の業を披露することを決意した。今度の週末、不浄のまち新宿は血によって洗い清められる。環虫どもよ、しっかり目を開き、そこから学ぶがいい。超人の業とはいかなるものか、超人に至るには何が必要かということを ツァラトゥストラ――

 

新宿

 

「あの投稿って、本当ですかね?」ドリンクコーナーから持ってきたコーヒーを浩平の机の上に置くと、桜が聞いた。

「どうせ、いつもと同じ愉快犯の類いだろ」浩平は添えられたミルクと砂糖をコーヒーに入れながら、気乗りしない様子で答えた。

「でも、サイバー班は結構大騒ぎみたいですよ。ハッカーが言ってました」

「ハッカー? ああ、前に一緒に飲んだお前の同期のネットオタクな――確か、芳賀だっけ? だけどサイバー班ならネットの掲示板に投稿した人間くらい特定できるだろ?」

「大きなショッピングモールの公衆WiFiから投稿されたみたいで、特定は難しいなって言ってました」

「世の中が便利になると犯罪もしやすくなるってわけだ。便利の世の中ってのも善し悪しだな」浩平が皮肉交じりに言った。

「でも日取りと場所まで指定してますからね。上もかなり神経とがらしてるみたいですよ」

「新宿一体どうやってカバーするんだよ。そんなのに付き合ってたら、これから日本中で同じような騒ぎが次々に巻き起こるぞ。こんなもんは無視してりゃいんだよ」

 桜は、浩平がこの投稿に全く関心を持っていないのを不思議に思ったが、そのまま押し黙った。

 浩平はコーヒーをうまそうに啜ると、「そんなことより、この前会った井上の話の裏はとれたのか?」と話を替えた。

「井上が二十四日の夜に友達と遊んでいたのは事実でした」

「ま、そんなとこだろうな」浩平は意外なほどあっさりと頷いたが、「それより、システム改修の一件は、本当に井上の言ったとおりだったのか」と身を乗り出して聞いてきた。

「はい、職場の人間に話を聞いてきましたが本当でした。誰に聞いても宮澤のおかげで乗り切れたと言ってました」

「黒田ってダメ課長には会ったのか?」

「それが本当にダメな上司で、宮澤くんがいなくなって大変だ、大変だって愚痴ばっかり聞かされてきました。あんな人をサポートするのは楽じゃなかったろうなって私も思っちゃいました。宮澤に仕事を任せた件について聞いたら、血圧が急に上がって医者からドクターストップがかかってしまい、断腸の思いで彼に任せざるを得なかったとかなんとか、長々と言い訳聞かされました」

「高血圧なんて、日本人の三分の一があてはまるだろうが」浩平は呆れたように言った。

「でもまあ、なんていうかどこの会社にも一人や二人は必ずいる、できの悪いサラリーマンって感じで、あんな人が今回のことに関わっているとはとても思えないです」

 浩平は不服そうな顔をしたが、それ以上は何もしゃべらず、「他には?」と桜を促した。

「実は宮澤の同期で小川結子という女性社員がいるんですが、宮澤はその女性とつきあっていたみたいだという噂話を聞いたので、その女性に直接話を聞いてきました。最初はなかなか話してくれませんでしたが、次第に口がほぐれてきて、最後は涙交じりにいろいろと話してくれました。実は彼女、入社した時から宮澤のことが好きで何度か二人でデートしたこともあったそうです」

「なんだ、宮澤も真面目一筋の男じゃなかったんだ」

「ええ、一緒に食事や映画にいった話を聞かされましたが、そういう時は面白い話をたくさん聞かせてくれるし、それでいて夢を語るときは子供のように純粋に目を輝かせて語ってくれたって」

「夢?」

「はい、いつか童話を書きたいって言ってたそうです。子どもが幸せになれるような、人生に希望をもってくれるような、そんな童話を書きたいんだって。だけど画才も文才がないからうまく書けないって、笑いながらそんなことを話してくれたそうです」

「天才でも苦手なことはあるわけだ。まあ、とにかく、付き合ってたってことか」

「ところが、そうとも言えなくて」桜が困ったように口ごもった。

「どうした」

「いや、あの……」

「なんだよ」浩平がじれったそうに尋ねた。

「……実は宮澤と小川結子はあのプロジェクトが無事に終わった慰労会の晩に、初めて宮澤の部屋で二人だけで過ごしたんだそうです」

 ようやく浩平も桜の言わんとしていることが分かってきた。

「……それで、その晩、初めて宮澤に抱かれたそうです」桜は少し、ほんのり頬を赤らめて言った。

「すごい幸せだったって恥ずかしそうに話してくれました」

 さすがに浩平も黙って、桜の話に耳を傾けていた。

「ところがその後、宮澤の態度が急に変わってしまって、彼女が会いたいって言っても、忙しいからまた今度って断られるし、四月に麻布に引っ越したことすら彼女は知らなかったそうなんです。それで、とうとうある晩、宮澤を問い詰めたそうなんです。そしたら宮澤は、『俺は人を幸せにする資格がなくなったんだ』って寂しそうに首を振って、彼女が何度わけを尋ねても、ごめん、ごめんって頭を下げるだけだったって」

「人を幸せにする資格がなくなった、どういうことだ?」

「さっぱり分かりません」

「小川結子が宮澤を問い詰めたのはいつだ?」

「五月の末のことらしいです」

「ってことは、井上が宮澤の妙な姿を見た後ってことか。やはり、宮澤にはそのあたりに何か大きな変化があった可能性があるな」

「そうなりますね」そうは言ったものの、浩平も桜もそれ以上は何も思い浮かべることはできなかった。

「ところで指輪のことは聞いてきたか?」諦めたように浩平が桜に尋ねた。

「あっ、それについては、大ニュースがあります」そう言うと、桜は身を乗り出した。

「宮澤の部屋で過ごした夜、宮澤が彼女にあの指輪を見せてくれたそうなんです。そして、これは俺の宝物なんだって話してくれたそうです」

「なんだと、それじゃ、あの指輪は慰労会があった三月の時点では宮澤が持っていたってことか」

「そういうことになります」

「たしか上條は、あの指輪は一年以上前に宮澤からもらったと言っていたよな」浩平の問いかけに、桜は手帳をぺらぺらとめくり、「はい、確かにそう言ってます」と答えた。

「そうなると、上條は嘘をついてたってことになる」

「先輩、上條はやっぱり、どこかで宮澤に会ったんですよ! そこでもらったのか、それとも――」

「奪い取ったのか」浩平が小さくつぶやいた。

 

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