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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(三十四)

 電車を降りると上條は駅前の乗り場からバスに乗った。浩平も上條のあとに続いた。神奈川とは言え、ここまでくると山々が広がり、車窓からは富士山の姿も仰ぎ見ることができた。二十分ほど街の中を走り、少し山あいに入ったところで上條が数人の乗客とともにバスから降りた。最後に降りた浩平はその場に立ち止まり携帯を確認するふりを装いつつ、上條が歩く方向を確かめると少し時間をおいてから歩き出した。

 上條が向かっていたのはお寺であった。上條は階段を登り山門をくぐると、本堂には目もくれず墓地があるエリアに向かっていった。すでに来たことがあるのだろう、たくさんの墓が並ぶ敷地を迷いなく進むと、一つの墓の前にたどり着いた。上條は墓の前に進むと静かに合掌した。何と声を掛けているのか、随分と長い間、手を合わせていた。ようやく頭を上げたと思うと、今度は左手を見つめ始めた。よく見ると指にはめられたあの指輪を見つめているようだった。

 

墓地

 

「その指輪は、宮澤さんからもらったものでしたね」物陰から現れた浩平が上條に声を掛けた。驚いたように振り返った上條はそれが浩平だと知り、束の間少し怖い顔をしたがふっと微笑んだ。

「――尾行していたんですね。全然気づきませんでした」

「上條さん、あなたは大学卒業以来宮澤さんにはほとんど会っていない、その指輪をもらったのも一年以上前だと言ってましたね」

「……ええ」上條は横をむいてつぶやいた。

「本当は、あなたは宮澤さんに会っているんじゃないんですか、この数か月以内に」浩平は語気を強めた。上條はしばらく黙っていたが、覚悟したように浩平に向き直った。

「ええ、僕は宮澤さんと会いました。これはその時もらったものです」

「それは、いつのことですか」

「六月の上旬のことです」

「どんな用件で会ったんですか」

「それは言いたくありません」上條は強い口調で言った。

「これだけはいっておきますが、あなたは我々に嘘をついた。そして、その嘘がばれても黙秘を続けようとしている。そういう態度はあなたへの疑惑を強めるばかりで、あなたにとって何のメリットもありませんよ」

「何と言われようと、これだけは言えません」

「じゃ、一つだけ聞きます」

「あなたが会ったことと、宮澤さんが殺されたことには関係がありますか」

「それも言いたくありません」

 浩平は上條の表情を見て、これ以上何を聞いてもこの男は答えないだろうと感じた。浩平は手に負えないとばかりに頭を掻いた。

「――今日は宮澤さんのお墓参りですか」

「ええ、先輩が亡くなって一か月。本当は月命日の二十五日に来たかったんですけど、バイトがあってどうしても時間が取れなかったので、今日お墓参りに来たんです」

「あなたにとって、宮澤拓己さんという人は特別な人だったんですね」

 浩平の言葉に反応するように上條は指輪を見つめた。

「この指輪は僕にとって先輩の形見のようなものなんです。先輩はかけがえのない人でした。心の底から尊敬できる人でした。先輩というだけではなく、僕の考えを理解し、また、互いに高めあうことのできる存在でもありました。僕にはこれまでそういう人と巡り合ったことがなかったから、大学で初めてあの人を知ったとき、本当にうれしくなりました。友達っていうのはこういうことだったんだと初めて知ることができたんです」

「あなたが以前『本当の友達とは、お互いを心の底から尊敬しあえる関係、同じ目標に向かってともに進むことのできる人たち、そして、時には最高のライバルとして戦い合えるような間柄である』と言っていたのは宮澤さんのことを指していたんですね」浩平がつぶやくように言うと、上條が微笑んだ。

「僕には本当の友達と呼べる人は宮澤さんしかいなかった。だけど僕は満足でした。本当に友達と呼べる人が僕にはいたからです――それだけじゃない、あの人は僕の命を救ってくれた恩人でもあるんです」

「あなたの命を?」浩平が怪訝そうにつぶやいた。

 上條は宮澤の墓の方を向くと、まるで宮澤に語り掛けるように話し始めた。

「僕は私生児として生まれ母に育てられました。母は東京で僕を育てながらなんとか暮らしていましたが、ある日逃げるように故郷に帰りました。しかし、故郷に帰っても苦労は絶えませんでした。それは子供の僕からみても、本当に大変な生活でした。朝から晩まで働きづくめで、いったいいつ寝てるんだろうというような生活でした。だけど母はいつも笑顔で僕が朝起きるときちんと朝ごはんができていて、学校に着ていく体育着にはアイロンが掛けてあって、家に帰ると美味しい晩御飯が待っていました」上條は懐かしそうに微笑んだ。

「そして、高校三年生になったある日、僕は高校を卒業したら働くからと母に話しました。少しでも母の苦労を軽くしてあげたいと思ったんです。でも母は、僕には好きな道を進んで欲しい、その方がなによりもうれしんだと言って、僕が働くことに反対しました。その頃、僕は哲学や宗教学に興味があったので、大学に行ってみたいとも思っていたんです。母は、そんな僕の気持ちを知っていたんです」上條は声を落とすと少し押し黙った。

「――結局、僕は母の言葉に甘えてしまいました。合格の通知が届いたとき、母はまるで自分のことのように喜んで僕を抱きしめてくれました。僕は、自分が合格したことなんかより、母がこんなにも喜んでくれたことが嬉しかった――でも、そんな喜びもつかの間のことでした。次第に母は体を崩すようになり、寝込む日が多くなっていたんです。ところが僕は、そんなこととはつゆ知らず、勝手気ままな大学生活を送っていたんです。たまに実家に帰っても、母は元気なふりをして僕を暖かく迎えてくれました。そして、大学三年の冬のある日、叔母から電話が入りました。母が危篤だと言うんです。僕は取るものも取り敢えず、電車に飛び乗って母が搬送された病院に向かいました。病室に駆け込むと、そこには吸引マスクをつけて痩せ衰えた母がベッドの上に横たわっていました。僕は自分の目を疑いました。僕にとって母はとても大きな存在でした。いつも僕を励まし、支え、抱きしめてくれた大きくて、暖かい太陽のような人でした。そんな母がまるで小人のように小さくなっていたのです。僕は母の手を取りました。その小さな手は皺だらけでざらざらに荒れていました。僕はそんな母の姿を見て涙があふれました。僕は母の手を握りしめ、母さん、母さんと何度も呼びかけました。すると、母の目がうっすらと開きました。母は僕の顔を見るとにっこり笑いました。そして何かを言いたそうにしました。僕は母の口元に耳を近づけました。そしたら母がかすかな声でつぶやいたんです。『私なんかのところに生まれてきてくれて、本当にありがとう。私は誰よりも幸せものだった』って――」上條の目はいつの間にか赤く染まっていた。

「母はそれから三日もしないうちに亡くなりました。葬儀が終わると、親戚たちは誰も彼もいなくなり、実家には僕一人だけが取り残されました。そのとき僕は自分の情けなさ、不甲斐なさに無性に腹が立ってきました。同じように、このしんと静まり返って僕の他はもう誰もいないこの家や母をこんな風に追い立てた社会に対して、いいようのない怒りを感じました。そして僕はこんなくだらない世界に生きているよりはいっそのこと死んでしまおうと思いました。死んで早く母のところにいって恩返ししたいと思ったんです。その時です。玄関のチャイムが鳴ったのは。僕はやむなく玄関に出ました。するとそこには、東京に帰ったはずの先輩が立っていたんです。先輩は葬儀にも出てくれたんですが、あれから一週間以上たっているし、まさか、まだ、こちらにいるとは思ってもいませんでした」

 

 しんと静まり返った旧家の仏壇の前に宮澤と上條は座っていた。欄間の上には上條家の先祖の遺影写真がずらりと並べられていたが、顔も知らない宮澤にとっては、それは冷え冷えとしていて決して居心地が良いとは言えなかった。その中で、唯一仏壇に飾られた上條の母の写真だけが、ほんのりと暖かい光を放っているように感じられた。

 位牌の前で合掌した宮澤が、その横で俯いて座っている上條に話しかけた。

「電話してもさっぱり出ないから心配して東京から戻ってきたんだ」

 だが、上條は宮澤の問いに答えることなくうつむいて黙っていた。

「どうした?」宮澤が心配そうに声を掛けた。

「……先輩、俺、死のうかと思っています」上條が低い声で言った。

「……なぜ、死にたいと思う」

「母親もいない、こんな冷え切った世界の中で生きる気力がわきません……」

 宮澤は上條のあまりに憔悴しきった姿に驚いた。葬儀の時はまだ気が張っていたのか顔色にも艶があったが、目の前の上條には生命の灯というものが全く感じられず、まるで病院のシーツのような肌の色と虚ろな目をしていた。

 このままでは上條は本当に死んでしまうだろうと宮澤は直感した。何か言葉を掛けようと思ったが適当な言葉が浮かばず、宮澤は仏壇に飾られた上條の母の写真を見つめた。写真の中の上條の母はとても美しく、暖かい笑顔をしていた。その笑顔を見ているうちに、宮澤の中にも懐かしく暖かいものが湧き上がってきた。宮澤は、上條の母が何かを語りかけているように感じた。

 宮澤はなんとか上條を励ましたいと思った。この男をなんとか生の縁に引き上げてやりたいと思った。そしてそれができるのは、この世界にはもはや自分以外にいないと悟った。

「お母さんのことは残念だったな。俺も早くに母親を亡くしたから、その悲しみはよくわかるよ」宮澤は写真から上條の方に目を移すと、上條を労わるように話し始めた。

「俺はまだ小学生のときに母親をなくした。母親の体がお棺にいれられるとき、俺は母親の体にしがみついて、泣きわめいて大変だったそうだよ。俺にはうっすらとした記憶しかないが、母親はとても暖かくて、優しかった記憶がある。小学校で母親を亡くした俺が覚えているくらいだから、大学まで行かせてもらったお前なら、たくさんのお母さんの記憶があるはずだ、俺にはそれがうらやましいよ」

 上條は下を俯いたままだったが宮澤の言葉が呼び水となったのか、上條の心の中に母と過ごしたたくさんの記憶が次々と蘇ってきた。旅行などは一切無縁だったが、母はよく上條を連れて家の近くの川の土手沿いを散歩してくれた。春になると、土手沿いに咲く桜の大木が見事な花を咲かせて、上條の目をうっとりさせたものだった。夏には、たくさんの鴨が川を泳ぎ、小さな鴨たちがお母さん鴨の後を泳いでいる姿に目を見張らせた。秋には、近くの里山の木々が紅葉に染まり、それが川面に映える光景は例えようもないほど美しかった。冬には、白い雪があたりを覆う中、しずしずと水が流れる姿に心を打たれた。

 いつも優しい母だったが、嘘をつくことと人の悪口を言うことだけは、絶対にしちゃいけないと何度も怒られた。しかられたときは母の顔が怖くて泣き出し、何度もごめんなさいと謝った。でも必ず、その後は自分をぎゅっと抱きしめて、いい子だ、いい子だと泣いているような、そして笑っているような顔であやしてくれた。

 なぜだか、辛い思い出は一切思い出さなかった。母との楽しく、そして、かけがえのない思い出ばかりが次から次へと浮かんできた。上條の目から涙があふれた。ふいても、ふいても、涙がぽろぽろとあふれ出た。宮澤は上條の肩に手をやると、何も言わず、優しい眼差しでずっと見守っていた。写真の中で上條の母がにっこりと微笑んでいた。

 

「――僕は先輩に命を救われました。もしあの時、先輩がいてくれなかったら、僕は自殺していたと思います」上條は浩平の方を向き直ると、そう言った。

 浩平は上條の言葉がなぜ人の胸に響くのかようやく分かった思いがした。この男は一度死の縁に立ち死を覚悟したのだ。だが、そこから生を見出したのだ。生きることの素晴らしさを見出したのだ。上條の目に輝く光は、決して死人のものではなかった。彼は命を取り戻して、この世に戻ってきたのだ。

「この指輪は先輩からもらったものです」上條が愛おしそうに指輪を見つめた。

「この指輪に刻まれた鷲はまさに先輩の姿です。常に誇り高い先輩そのものなんです。僕に生を与え、道を示してくれた先輩。僕は先輩のようになりたいと願って、この指輪をはめているんです」

 浩平は上條の言葉を聞くと、最後に一つだけ聞いた。「――あなたほどの人でも宮澤さんには勝てませんか」

 上條は浩平の顔をじっと見つめた。そして言った。「あの人より高みに昇れるような人間は誰もいません。もし、あの人を超えられるものがいるとすれば、それは、まさしくツァラトゥストラその人であり、超人たりえるものだけです」

 

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