上條と寺で別れた浩平はこの機会に宮澤の父を尋ねてみることにした。上條に姿を見せてしまった以上尾行を続ける意味もないし、そもそも、浩平はインターネットの掲示板にあがった投稿はツァラトゥストラのものとは思っていなかった。そんなことに時間を使うより、宮澤という男の実像をもっと知りたいと思ったのだった。
宮澤家は町外れの閑静な住宅街の一角にあった。急な訪問ではあったが、折よく宮澤の父は家にいて浩平を中に招いてくれた。居間に通された浩平は、宮澤の父親がお茶を運んでくると恐縮しながら頭を下げた。
「こんなものしか、お出しできなくてすいません」
「いや、突然お邪魔した上に、ご面倒をおかけして恐縮です」
「お気になさらず。ずっと一人だったんで、こんなこともすっかり慣れっこになってしまいましてね――」苦笑しながらそう言った父親だったが、急に自分の言葉の別の意味に気づくと、沈痛な表情で押し黙った。
「ご子息のご不幸については、心中お察しします」浩平が神妙にそう言うと、父親は気を取り直すように、さあどうぞとお茶を勧めた。
浩平は出されたお茶を一口飲んで茶托に戻すと、訪問の目的を切り出した。
「今日お伺いしたのは、拓己さんについてもう少し教えていただきたいと思いまして」
「どんなことですか」
「例えば病歴とか生い立ちとかについてです」
「病歴ですか?」
「ええ、拓己さんは何か大きな病気にかかったことはありませんでしたか」
「さあ? 風邪ぐらいならありましたけど、病気知らずと言いますか、昔から元気な奴で」
「子供の頃はいかがでした?」
「いや、子供のころもどうしようもない腕白で、よく近所の子供たちを泣かせて何度も相手の親のところに謝りにいったものですよ。とにかく元気なやつでしたから病院に行ったことがあるのかちょっと記憶にないですな」
「なるほど、よく分かりました。では、生い立ちについてはどうですか?」
「息子の生い立ちが何か事件に関係があるのでしょうか?」父親は不審そうに尋ねた。
浩平は身を乗り出すと熱く語り始めた。
「はい、私は、この事件の鍵は拓己さんがなぜ殺害されたのかということにつきると思っています。そのためには拓己さんの素顔を知ることが最も重要だと考えています。つまり、彼がどんな幼少時代を送り、どんな大人になっていったのかというようなことです」
父親は目の前の少し風変りだが燃えるような眼をした刑事をじっと眺めていたが、自分の前にあったお茶を手に取り一口飲むと、ゆっくりと話し始めた。
「息子は本当に立派に育ちました。我が子ながら本当に素晴らしい人間になってくれました。だが、今思えばもう少し子供らしい時間を作ってあげるべきだったのかもしれません。私は教師です。亡くなった妻も教師でした。教師というのは人様の子供を預かります。そうした手前、自分たちの子供には厳しくすべきだと思い、必要以上に厳しく接してきました。それでも、妻が生きているうちは私が叱っても妻が陰でなぐさめてくれてバランスが取れていたのですが、妻が亡くなると妻の思いも重なってか、拓己を立派な人間にしなくてはとそれだけが私の生きがいになって、より一層厳しく育ててしまいました。おそらく、拓己はもっと優しくして欲しかったんだと思います。あいつは妻が亡くなった時、ずっと妻の遺骸から離れませんでした。お棺に入れる時など、泣きわめいて引き離すのに本当に苦労しました。拓己は私が思っていた以上に優しい子だったんです。それなのに、私はそんな拓己の思いや性格を見抜けず、自分の思いだけで育ててきてしまったんです」
「でも拓己さんを立派に育てるというのは、亡くなられた奥さんの願いでもあったんでしょう」
「ええ、妻は最後に『拓己をお願いします。拓己を立派な人に育ててください』と私に言い残して亡くなりました。私は拓己を立派な人間にするためにいつも、人に信頼される人になれ、人の嫌がることを率先してやれ、他人の痛みを感じられる人間になれと言い聞かせて育ててきました。そして、拓己は親の私から見ても、それに相応しい人間になってくれました。そういう意味では私は十分満足しているのですが、最近妻が『立派な人に育ててください』と言ったのは、本当にそういう意味だったのだろうかとよく考えるんですよ」
「というと」
「人の上に立つとか人のために働くとか、そんな大それたことじゃなく、普通に結婚して子供を作って暖かい家庭を作る、それが一番立派なことじゃないのか、妻が望んでいたのは、そういうことだったんじゃないのかと。私は、自分が望む立派な人間という型を拓己に押しつけ、勝手に満足していただけなんじゃないのかと――今では、そんなことばかりが頭をよぎるんです。拓己が七月に墓参りで帰ってきたときに、私はあいつに誰か結婚相手はいないのか、早く結婚したらどうだと、そんなことを言ってしまいました。拓己はびっくりしたように『まだ早いよ、それに、仕事もあるし』と笑いながら手を振るばかりでした。まさかそれが拓己を見る最後になるなんて……拓己がいなくなって初めてえらくなんてならなくていい、仕事なんてできなくたっていい、ただ、拓己が家庭を持って父親になるところを見たかった、お前の子供を見たかった……お前の子供を妻に見せたかった。そんなことばかり、毎日毎日……」そこまで言うと、父親は顔を下に向け体を震わせた。
麗らかな日が差し込む秋天の昼下がり、開け放たれた庭先から、さあっと爽やかな風が中に吹き込んできた。その風は男泣きにむせぶ父親を優しく包み込むようだった。浩平は、庭先からはるか彼方に聳える雄大な富士の姿を眺めた。どこかで鳶が鳴いていた。