「今、どこにいるんですか!」桜の怒鳴り声が携帯電話ごしに響いた。
「神奈川から戻るとこだよ。今、列車の中だから、切るぞ」浩平は周りを気にしながら、小声で答えた。
「ちょっと待ってください。大事なことがあるんです」
「どうした?」
「田口宜夫が新宿に来てます」
「じゃ、尾行を続けろよ」
「ところが捜査員が新宿駅で見失ってしまったんです」
「はあ、何やってんだよ!」浩平が怒鳴り声をあげた。
「そんな怒らないでくださいよ。私が見失ったんじゃないんだから」
「とにかく、新宿についたら連絡する!」浩平は怒鳴るようにして電話を切った。
明らかに迷惑そうな顔をしていた周囲の乗客たちは、携帯を切った浩平の形相を見た途端、皆一様に目をそらした。
「おい、ちょっと用事できたから先に上がるわ、あと頼むぞ。閉める時はちゃんと片付けとけよ!」
「えっ、一人でですか? だったら俺も早めに帰りたいんですけど」
「だから、適当なところで片付けて帰れって言ってんだよ!」
青木はイラついたように言うと、バタンとドアを閉めて店を出た。
ほんと、あの野郎使えねえな。指示しねえと何もできねえのかよ。マジで首にするかな。
青木は内心毒づいた。
青木健三は新宿にあるカウンターバー『フォンテン』の店長だったが、店が裏通りにあるせいかあまり客も入らず下村武彦という二十五歳の若者と二人で店を回していた。今日は前から口説いていたクラブのホステスが急に会いたいと連絡してきたため片付けは下村に任せて早上がりすることにしたのだった。ビルの裏手にある通用口を出た青木はこれから起こることを想像して体が熱くなるのを感じた。結構、金かけたけど、今日で元は取れそうだな。そういえば財布に金あったかな?
青木は財布を取り出して中身を見たが五万円近く入っていた。これなら、なんとかなるだろうといやらしい笑みを浮かべた。青木は意気揚々と路地裏を歩き出そうとしたが、その瞬間、背中にドンと何かがぶつかってきた。何事かと思い振り返ろうとしたが、妙に体が重く、体の自由が利かなかった。そして二度、三度と再び背中をハンマーのようなもので叩かれるような強い衝撃があった。
「……痛えな」
青木はなんとか後ろを振り返ろうとしたが力が入らず、そのまま崩れ落ちた。地面に横たわった青木の目に、何か紙のようなものがひらひらと落ちてくるのがスローモーションのように映ったが、数秒後にはそれも消えた。
現場は夜中の二時だというのに野次馬が群がり、メディア関係者がバシャバシャとカメラのシャッターを切っていた。テレビ局まで来ているようで、リポーターがテレビカメラに向かって金切り声をあげてしゃべっているのが遠くに聞こえた。
「なんでこんな早くあいつらが来てんだよ」浩平はうんざりした様子でマスコミを眺めた。
「しょうがないですよ。あいつら一日中、新宿をうろうろしてましたから」桜が諦め顔で言った。
「でも、やっぱり予告通りでしたね」桜は現場を見渡すと暗い表情でつぶやいた。そこには、背中を真っ赤に染めた男がアスファルトの上に横たわっていた。何度も背中を刺されたと見えて、血が男の周りを囲むように広がっていた。男の足元には凶器と思しき血塗られた出刃包丁が転がっていた。また、見開いた青木の目の前には白いカードが一枚落ちており、そこには、Vom Gesindelという文字が書かれていた。『賤民』という意味の言葉だった。その言葉が『ツァラトゥストラはかく語りき』にでてくる言葉であることは、浩平はとうに知っていた。
「多くの人々が人生を逃れたのは、こうした賤民から逃れたのだった。賤民と共に泉を分かち、焔を分かち、果実を分かつことに耐えられなかったのだ、か」浩平はぼそっとつぶやいた。
「これもツァラトゥストラですか?」桜が重苦しく尋ねた。
「ああ……それで、第一発見者は?」
「えっと、このビルの三階のスナックで働いているホステスです。一時に店をあがって、この通用口から帰ろうとしたら、男がこの状態で倒れているのを発見したそうです」
「男の素性は?」
「ビルの二階にあるカウンターバー『フォンテン』の店長で青木健三という男だそうです。財布に入っていた免許書とも一致しました」
「顔見知りってことか」
「はい、そのようです」
「この通用口は従業員専用か?」
「そうみたいです。このビルのテナント関係者はいつもここから出入りしていたようです」
「ってことは、青木も仕事を終えてこの通用口を出て帰ろうとしたところを誰かに刺されたってことか」
「そうなりますね」
「そのバーは青木の他に誰かいたのか?」
「下村武彦という男と二人で店をやりくりしていたそうです。いつもは三時頃まで開けるそうですが、今日は客が誰もいなかったので、青木が早めに閉めようと言い出し、一時少し前に青木が先に帰ったそうです。下村の方も店を片づけて、いざ帰ろうと思ってたところに下から叫び声が聞こえたので、急いで駆けつけてみるとこのとおりだったと」
「一時少し前って何分だ?」
「すいません、えっと、零時五十五分くらいだそうです」桜が慌てて手帳を広げた。
「第一発見者が現場を確認した時間は?」
「正確には一時十分ごろだそうです。そのあと店に戻って警察に通報したそうです。110番通報があったのは一時十二分になっています」
「――ってことは、零時五十五分から、一時十分の間に殺されたってことだな」
「そうなります。おそらく、ちょうど通用口から出てきた青木を通りかかったツァラトゥストラがナイフで刺して、そのまま逃げたんだと思います」
浩平はため息をついた。「そんな都合のいい話があるかよ。とにかく今日は終わりだ。あとは鑑識に任せて帰るぞ」
浩平はそう言うと立ち入り禁止のテープをくぐって車に戻ろうとした。そのときさきほどまでカメラ相手にわめいていたどこかのテレビリポーターが足早に近づいてきたかと思うと「これは、ツァラトゥストラの犯行ですか?」と、人の迷惑などお構いなしに浩平の前にマイクをぐいぐい押し付けてきた。浩平は無視して立ち去ろうとしたが、その女性リポーターは執拗に後を追いかけ浩平に迫った。
「ツァラトゥストラから事前に予告されていましたよね。警察の対応が後手後手に回っているんじゃないんですか! 世間じゃ警察の捜査能力に問題があるのではという声も出ていますよ!」
その瞬間、浩平の足が止まった。そして自分の前にマイクをつきつけてくるリポーターを睨みつけた。その様子を見た桜は慌てて浩平の手を引っ張った。浩平は何か言いたそうな素振りを見せたが口をぎゅっと結ぶとリポーターを無視して足早にその場を立ち去った。