取調室の隣室に設えられたマジックミラーの前には大勢の捜査員が立っていた。桜も端の方に立ってミラーを見つめていたが、中では田口宜夫が座っているのが見えた。田口は明らかに落ち着かない様子で、きょろきょろと部屋中を眺めたり、俯いてぶるぶると肩を震わせたりしていた。
一方、浩平は脇の方で係員と打ち合わせをしていた。係員はこの事情聴取はあくまでも任意同行のもとに行われるものであるので言葉使いや対応には十分に注意するようにと噛んで含めるように説明していたが、浩平はことの重要性を理解しているのか桜が心配になるくらい普段と変わりない様子で、あまりの緊張感の無さに近藤管理官も渋い顔で浩平の方を眺めていた。
ようやく準備が整ったと見えて、浩平がこちらにやってきたが、そこに居並ぶ捜査員を見ると、参ったなとでも言うようにポリポリと頭を掻いた。浩平は捜査員たちの前に立つと、じゃ始めますと朝の挨拶でもするように声を掛け、緊張などとは一切無縁の様子で取調室の中に入っていった。
扉が開いた瞬間、田口はびくっとして中に入ってきた男を見上げた。浩平はそんな田口を眺めつつ、テーブルを挟んで対面に座った。肩を小刻みに動かし、恐る恐る浩平を見上げる田口の姿は、以前浩平相手に高声をあげて反論した田口とは雲泥の差があった。いつか佐々木が田口を評して、口先だけの小心者ですよと言った言葉が浩平の脳裏に浮かんだ。
「田口さん、お久しぶりです――すいませんね、朝帰りでお疲れのところ、こんなところに呼び出して。ちょっとだけ話を聞かせてもらっていいですか。お時間は取らせませんので」浩平は知り合いに話しかけるような調子で声を掛けた。
田口は大きく唾を飲みこむと、「なんでしょう」と小さな声で答えた。
「あなたは、昨日、新宿に行きましたね」
「は、はい」
「どこで何をされました」
「あ、あの、いろいろとお店を回ったりしていました」
「ほお、買い物ですか」
「た、ただ見て歩いただけです」
「それじゃ、一時頃はどこにいましたか?」
「か、歌舞伎町のあたりにいました」
「どこかで飲んでたんですか」
「……いや、歌舞伎町をぶらぶらと歩いていただけで」
「歌舞伎町をぶらぶらと散歩ですか、変わった趣味をお持ちですね。それでその後は?」
「そ、その、し、新宿のネットカフェで朝まで時間をつぶしてました」
「それで?」
「今朝そのネットカフェを出て、自宅に戻ったら、刑事さんに呼び止められて……」
「ふ~ん。それじゃ、とりあえず、この紙に昨日から何時にどこで何をしたか書いてもらっていいですか」そう言って、浩平は田口に紙とペンを渡した。
田口は紙を受け取ると、浩平を上目遣いで見ながら、「すいません、携帯で確認しながら書いていいですか」と震える声で言った。
「どうぞ、どうぞ」
そう浩平が言うと、田口は携帯を取り出し、地図アプリやネットの履歴などを呼び出して、一々それを確認しながら紙に書き始めた。
田口の字は小さくてテーブルの向こう側からは読み取りづらかったが、几帳面に分単位で何々ビル前とか、どこどこの店内とか、事細かくに書いているのが分かった。
およそ、三十分もかかったろうか、その間、浩平は腕を組んで黙って天井を見つめていたが、書き終えた田口がびっしりと小さな字で埋まった紙を両手で浩平に差し出すと、浩平はそれを一見することもなくいきなり言った。
「田口さん、あなたなんでツァラトゥストラの真似ごとなどして、新宿にいったんですか」
外でそれを聞いていた桜は、浩平の唐突な発言に驚いたが、驚いたのは桜ばかりではないようだった。
田口は浩平の厳しい視線に体をすくめると、「す、すいません。僕じゃありません。僕は何もやってません」と震えるような声で答えた。
「田口さん、私は、あながたツァラトゥストラだとは思ってませんよ。でも、なんでツァラトゥストラを気取って、用も無いのに新宿にいったりなんかしたんですか?」
「ぼ、ぼくは、僕は……」
体を震わせてどもりながらしゃべる田口と泰然として田口を見つめる浩平とは、まるで大人と子供ほどの貫禄の差があった。田口は完全に浩平に呑まれたのか、全てを吐き出さんばかりにしゃべり始めた。
「……僕は、ツァラトゥストラと名乗るものが世間を騒がせているのが、たまらなく痛快だったんです。僕たちが学んだ哲学が新聞の一面を飾り、世間のトップニュースになっているのが楽しくてしょうがなかったんです……そりゃ、大学当時は哲学を学ぶことに意義を感じました。哲学を学んでいる自分はそこら辺のちゃらちゃらしてる学生なんかよりはるか上をいってると思ってました。だけど、社会人になって、大学時代に馬鹿にしてたようなやつらが自分より仕事ができたり、周りから評価されているのを見ると、結局、哲学なんて何の役にも立たないって感じるようになって……自分は道を間違ったんじゃないか、法学や政経に行って、いい会社に入った方が、いい人生を歩めたんじゃないかって思うようになってたんです。ところがツァラトゥストラがあの声明を出した途端、世間は手のひらを返したように、ニーチェだツァラトゥストラだと騒ぎ始めて……まるで僕らが学んだツァラトゥストラがトップアイドルにでもなったような気分でした。僕にはそれがたまらなかったんです。今回の事件で僕も容疑者の一人だということは分かってました。でも僕は何もしてないから何の恐れもなかった。だから、警察に調べられるのは、まるでドラマの主人公にでもなったような気分だったんです。会社でも同僚たちが恐れと憧憬に満ちた眼差しで僕を見るのが、なんともたまらなくて、それは身震いするような快感でした。だから、あの投稿を見た時、僕も主役の一人なんだから、その場所にいなくちゃ面白くないって思って……」そう言うと、田口は頭を伏せた。
そんな田口の様子を見ていた浩平がため息をついた。
「田口さん、これで懲りたはずだ。これは遊びじゃないんだ。一つ間違えれば、あんたは宮澤殺し、青木殺しの容疑者として逮捕されていたかもしれないんだ」
田口は顔を上げると、ぜんまい人形のようにうんうんと頷いた。
「もう一度だけ聞く。宮澤や内藤を殺した犯人は誰だ。自分が知っていることを全部話すんだ。さもないと大変なことになるぞ」浩平はきつい口調で田口に迫った。
田口は今まで見せたことのないような真剣さで考え始めた。その額からは汗がにじみ出ていた。田口はだいぶ長い間考えていたが、結局、頭を振った。
「すいません、やっぱり、何も思いつきません」
「じゃ、最後にもう一つだけ聞く。もし、ツァラトゥストラの正体が上條和仁だとしたら、君はどう思う」
田口は息をのんだ。そして、しばらく考えた後、「……もし、誰かというなら、あんなことを本当にやれるのは上條以外にはいないと思います」と覚悟したように言った
「それじゃ、もし上條和仁がツァラトゥストラだとして、彼から何か頼まれたら、君は、それに力を貸すか」浩平は田口の心の内までも見透かすかのように尋ねた。
「そんなことは絶対にしません、そんなことがあったら全部刑事さんに話してます!」田口は何かを振り捨てるように大きな声で答えた。
田口の書いた紙には、新宿での行動が分刻みで事細かに記載されていた。捜査員は田口の行動ルートを洗い、付近に設置された監視カメラを確認したが、田口が寸分の狂いなくそのとおり行動していることが確かめられた。最も肝心な一時前後のアリバイについては、田口は現場から八百メートルほど離れたコンビニで立ち読みしており、店内の監視カメラにも田口の姿がはっきりと映っていた。
田口は自分のアパートも徹底的に調べてほしいと浩平に訴えたため、アパートの中も調べられたがツァラトゥストラにつながるようなものは何一つ見当たらなかった。田口が使用しているパソコンも綿密に調べられたが事件に関係するようなファイルは見当たらず、田口の口述通り、頻繁にインターネットの掲示板をみた履歴のみが確認されただけだった。この結果、田口は宮澤及び青木殺害の容疑から完全に外れることになった。