宮澤拓己が殺害されてからちょうど一か月後の九月二十五日、下村武彦は逮捕された。下村が逮捕される数分前、インターネットの掲示板に次のような投稿がアップされた。
――いまだ超人にたどりつけない未熟なものたちよ。お前たちは新宿で起こったことを知っているだろう。私の手によって賤民が一人この世から消え失せた。だが、この世の中には、まだこうした賤民どもがあふれかえっている。こうした賤民どもがいやな臭いを発し、この世界に汚臭を撒き散らしているのだ。
超人に至らんとするものたちよ、私が手本を見せた。あとは諸君の番だ。賤民を駆逐し、私とともに汚れなき快楽の水を飲もうではないか。賤民である己を捨てて、超人に至る道をともに歩もうではないか。ツァラトゥストラ――
この投稿がアップされた二分後には、サイバー班の芳賀から下村を尾行していた桜に、発信元は渋谷にある大手デパートが提供する公衆WiFiである旨の連絡がなされた。まさにそのデパートのフードコートで下村は軽食を食べながらタブレットをいじっていたのだった。浩平と桜はその場で下村を確保し署への任意同行を求めた。取り調べの結果、下村はあっさりと青木殺害を認め、また自分こそがツァラトゥストラであると自供した。
夕方には捜査本部で記者会見が行われた。会見室に並べられた椅子はあっという間に満席になり部屋は人とカメラとで埋め尽くされた。カメラのシャッターが花火のように燃え盛る中、近藤管理官が渋い表情を崩さず、下村武彦を青木健三殺害及び一連のツァラトゥストラ関連の容疑者として逮捕したことを告げ、併せて現在判明している事実を公表した。
下村武彦は東京出身で両親ともサラリーマンの家庭で育った。幼少時代はとりたてて目立つところのない、ある意味特徴のない少年だったが成績は良かったため、高校卒業後、都内の名門私立に進んだ。だが自意識が強く、常に人と自分とを比べたがる下村は次第に周囲から煙たがられ、卒業する頃には友達と言える人は一人もいなくなっていた。
大学のネームブランドもあり、最初は大手の電機メーカーに就職したが、いざ働き始めると協調性にかけ、職場内でのいざこざや取引先とのトラブルをたびたび起こした。見かねた上司が注意したところ、それが気に食わなかったのか、その場で辞めると言い出し、翌日から会社に来なくなった。その後もいくつかの会社で働いたが、いずれも長続きせず、次第にアルバイトを転々とするようになり、この夏から「フォンテン」で働き始めていた。
下村は大学では経済学部に在籍し、これまで哲学を専門に学んだことはなかったが、アパートの書棚はニーチェやカントなどの哲学関連の書物で埋め尽くされており、その中には内藤昌之の書いたツァラトゥストラに関する著書もあった。また自宅にあったパソコンのインターネットの履歴を調べたところ、ニーチェ関連のサイトの閲覧が多く、いくつかの掲示板でニーチェに傾倒したかなり過激な投稿をしていたことも確かめられた。
下村自身の言葉によれば、今回の一連の事件の動機は俗臭に満ちた現代人は超克されなければならないとし、自分が新たな一歩を踏み出すことで、人びとの意識を変革させたいという強い使命感により行ったとのことであった。青木健三を殺害したことについては、自分の周囲にたまたまそういう下劣で利己的な人間がいたので社会への教訓として犠牲になってもらったと供述した。
最初の計画では、店を閉めてから青木をどこかに誘い出して殺害する予定だったが、その日に限って青木が急に店を上がると言い出したため、青木が通用口を出た後でこっそりドアを開け、通りに人がいないことを確認して出刃包丁で刺殺し、そのまま店に戻って掃除を続けたということだった。犯行に使った出刃包丁はそのまま現場に放り投げ、柄の部分に巻いていたキッチンペーパーはトイレに流したと語った。
青木健三殺害については事細かに語る下村であったが、宮澤と内藤について問われると、死に値するとつぶやいただけで殺害の動機や殺害方法を語ることを一切拒んだ。また『賤民』と書かれたカードのフォントが宮澤や内藤のときとは違っていることについて尋ねても黙秘するのみであった。いくつかの疑問点は残ったままだったが、捜査本部は下村武彦を一連のツァラトゥストラ事件の容疑者と断定し、今後は起訴するための証拠集めに焦点が移っていった。
「宮城、でかしたな! 副総監からもお褒めの言葉をいただいたぞ。いや、よくやった。だいぶ疲れたろ。休暇でも取って、ゆっくり休め」これまでの仏頂面とは一転して満面に喜色を浮かべた近藤は浩平の肩を叩くと上機嫌で部屋を出て行った。
「管理官も随分調子いいですよね。まあ、だいぶ上からのプレッシャーもあったみたいだから、喜ぶのも無理ないですけど」桜は苦笑しながらつぶやいた。
「お前、これで本当に事件が解決したと思ってんのか?」浩平が驚いたように言った。
「えっ、だって当の下村が犯行を自供してるんですよ」
「じゃ、なんで宮澤を殺したんだよ。内藤はどうなんだよ? この二人と下村が一体どうつながってるんだよ。そのことについては自分が殺したの一点張りで、動機も殺害方法も何にもしゃべってないじゃないか」
「確かに、まだ分からないところはありますけど、下村がニーチェの狂信者だったってことは確かじゃないですか。それに自分じゃないなら、自分がやったなんて言うわけないですよ」
「狂信者だったら、自分がツァラトゥストラとみなされて裁かれることは最高の喜悦なんじゃないのか」
「うーん、そうかな?」桜は納得しがたいというように首を傾げた。
「それに、やっぱり一番の疑問は宮澤や内藤との関連だ」
「でも、下村の家には内藤が書いた本もありましたよ。内藤を知っていてもおかしくないんじゃないですか」
「ああ、内藤昌之が日本有数のニーチェ研究者で、メディアでも歯に衣着せぬ物言いで知られるニーチェ思想の体現者であることは知っていただろうさ。だが、その内藤が実は『学者』と呼ばれるような俗物であるとどこで知ったんだよ? そんな個人の内面を知ることができるのは、内藤と付き合いが深いゼミ生の連中以外にいないはずだろ」
「でも狂信者だったら、内藤をつけまわして、内藤本人やゼミ生のこともかなり詳しく調べてたんじゃないんですか。それで、内藤の本当の正体を知ってしまったとか……」桜はいかにも自信無げに答えた。
「違うね。少なくても宮澤と内藤については、下村がやったんじゃない。この事件はまだ終わってねえよ」断言するように語る浩平の言葉が桜の胸に不吉に響いた。