ツァラトゥストラとの戦いを明日に控え、浩平はチャイルドケアホームを訪れていた。さすがに上層部も、この数日缶詰め状態にしてろくに休みも与えなかった浩平にもいくばくかの休養が必要と判断したらしく、半日だけ自由時間を与えたのだった。いきなり自由を与えると言われた浩平は、くれるものならということで外に出たはいいが、どこにいくあてがあるでもなくはたと困ったが、急に芽衣のことを思い出して会いにきたのだった。
浩平がホールに顔を出すと芽衣は相変わらず隅っこの方で一人本を読んでいたが、入ってきた人間が浩平だと分かるとうれしそうな笑顔を浮かべて走ってきた。
「おじさん、約束どおりきてくれたんだね」
「あたりまえだろ。約束したことは必ず守るよ。ところでおじさんはやめてくれないかな。これでも、まだ三十三歳なんだぞ」
「じゃ、なんて言えばいいの?」
「そうだな――こうへいにいちゃんでいんじゃないか」しばらく考えた末に浩平が真顔で言うのを聞いて、芽衣はくすっと笑った。
「じゃ、こうへいにいちゃんにする。ねえ、あっちの方に行こう」
芽衣はそう言うと、浩平の手を引っ張ってグランドの方に向かっていった。そこでも子供たちが何人か遊具で遊んでいたが、芽衣は少し離れたところにあるベンチに腰を掛けると、浩平が隣に座れるように席を開けた。浩平は遠慮なく隣に座った。大の大人と小さな子供が恋人のように仲良くベンチに座っている光景は少し滑稽なようで、近くにいたスタッフがくすっと笑ったが、本人たちは至極真面目に座っていた。
「こうへいにいちゃんは、なんのおしごとしてるの?」芽衣が浩平の顔を見上げながら真面目な顔で尋ねてきた。
「おにいちゃんは警察官なんだ」浩平も真面目な顔で答えた。
「じゃ、悪い人を捕まえるのね。じゃ芽衣をいじめる悪い人がいたら、やっつけてくれる」
「あたりまえだ、芽衣ちゃんをいじめるような悪い奴がいたら、おにいちゃんが絶対に捕まえてやる」浩平がそう言うと芽衣はうれしそうに笑った。
「芽衣ちゃんは、本が好きなのかい?」今度は浩平が質問した。
「うん、大好き」
「他の子供たちとは遊ばないのかい?」
浩平の質問に芽衣の顔が少し曇った。
「だって、みんな芽衣のこと変な目でみるんだもん」そういうと、芽衣は無意識に長そでシャツの袖口を手首ギリギリまでずり下した。
浩平はそれを見た途端はっとし、慌てて話題を変えた。
「――おにいさんもな、本が好きで子供のころはたくさん本を読んだんだよ」
「どんな本を読んだの」芽衣が興味津々尋ねてきた。
「そうだな。芽衣ちゃんにはちょっと難しいかもしれないけど、宮沢賢治という人が書いた童話はたくさん読んだよ」
「わたし知ってるよ。森のレストランで男の人たちが猫に食べられそうになるお話でしょう」芽衣が自慢げに答えた。
「よく知ってるね。そうだよ、それは『注文の多い料理店』というお話だよ」
「でも変なお話だよね。お食事に行ったのに、自分たちが食べられそうになるんだよ。お食事を食べに来たおじさんたち、最後は泣きながら逃げ出していくんだよ。可哀そうだよ」
「あのおじさんたちはたくさんの動物を銃で撃ったから、動物たちが仕返しをしたんじゃないかな」
「でも、おじさんたちもしょうがなく動物を撃ったんでしょう。だって、そうしないと、食べていけないもんね」芽衣がまっすぐな目をして浩平に尋ねた。
浩平は言葉に詰まった。浩平はまっすぐにこちらを見つめる芽衣の姿を見て、なんと答えてよいものか思い悩んでいたが、不意に脇から別な男の声が聞こえた。
「そうだよ芽衣ちゃん、おじさんたちも生きていくためにしょうがなく、動物たちを殺さなくてはいけなかったんだよ」
浩平が思わず振り返ると、そこには上條が立っていた。
上條と浩平はグランドの外れに立って子供たちが遊ぶのを眺めていた。芽衣はさきほどのベンチで本を読んでいた。たまにこちらの方を振り向くと大きく手を振った。それに呼応するように上條と浩平も手を振った。
「宮城さんたちが少し前にここに来たことは園長から聞きました。芽衣ちゃんが宮城さんのことをとても気に入ってと、うれしそうに話していました。でもまさか、また会いに来てくれるとは思ってもみませんでした」上條がグランドを見つめながら言った。
「いや、お恥ずかしい。私の方があの子と友達になりたくなりましてね。でもまだ上條さんほど慕われてないので、今必死にアタック中です」浩平がそう言うと、上條は浩平の方を向いてくすっと笑った。
「あなたは不思議な人ですね」
「あなたこそ、入学当時からここでボランティアをされていると聞きましたが、なかなかできることじゃない」
上條は浩平の言葉を聞くと、再びグランドにいる子供たちの方に目をやった。
「宮城さん、ここにいる子供たちがどういう環境から、ここで生活するようになったかご存知ですか? 例えば、あそこの鉄棒で遊んでいるあの少し痩せた女の子、みどりちゃんというあの子の両親はあの子にほとんど食事を与えず、五歳で保護されたときあの子は十キロもなかったそうです。保護された晩、その両親はハワイに旅行中で残されたあの子は台所にあったじゃがいもとニンジンを齧っていたそうです――その隣にいがぐり頭の男の子がいますよね。あの子は進くんというんですがあの子の父親は頻繁に暴力を振るうような男でした。ある日、母親が買い物から帰ったらあの子の姿が見えず、父親に尋ねると、躾の最中だと洗濯機のある方を指さしたそうです。まさかと思って慌てて洗濯機を見たら、あの子が洗濯機の中でぐるぐる回っていたそうです――発見されたときはほとんど虫の息でしたが、そのとき父親は何をしていたと思います? お笑い番組を見てゲラゲラ笑っていたそうです」
浩平は押し黙ったまま、その女の子と男の子が鉄棒で仲良く遊んでいるのを見つめた。
「芽衣ちゃんのことは園長から聞いたようですね」上條が浩平に向き直った。
「ええ」浩平は静かに答えた。
「あの子は大変な悲しみを背負ってきたんです」
上條は芽衣の方を眺めると沈痛そうにつぶやいた。浩平はただ頷くしかなかった。しばらく無言の時間が続いた。浩平はふと隣に立っている上條の方に横眼をやったが、その瞬間、驚きのあまり目を見開いた。その時の上條の顔をなんと形容したらいいのだろう。悲しみ、怒り、絶望、それらすべてが入り混じったような表情で唇をかみしめながら、ぶるぶると何かをこらえるように震えていた。
「上條さん?」浩平は思わず声を掛けた。
上條はしばらく唇を噛み続けていたが、あまりに強く噛みしめていたのか唇の端から血が流れた。
「宮城さん、あの子には秘密があるんです。園長ですら知らない。恐ろしい秘密が」
震えるように語る上條の言葉は、それを聞く浩平の心をも震わせた。浩平は芽衣の方に目を向けた。芽衣は相変らずポツンと一人ベンチに座って本を読んでいた。
「宮城さん、タバコを押し付けられることが、どんなに熱いか知っていますか――僕は知っている。僕がまだ赤ん坊のころで、他のことは何も覚えていないけど、あの瞬間のことだけはなぜかはっきりと覚えている。僕にタバコを押し付けたやつは――そいつは一応、僕の父親と呼ぶべきなんでしょうが、そいつは本当に人間の屑のような男でした。そいつは、一度、僕の腕にタバコを押し付けたんです。これがその時のやけどの痕です」そう言うと、上條は左腕を突き出した。そこには周囲の白い肌とは全く異質の禍々しいばかりに赤く変色したやけどの跡があった。浩平はそれを見て息をのんだが、その後に上條が語った言葉は想像を絶するものだった。
「僕は芽衣ちゃんとある程度仲良くなってきたとき、秘密だよと言ってこれを見せました。そして、僕たちは似たもの同士だね、友達になろうねと言ったんです。そしたら芽衣ちゃんはひどく震え始めました。顔は青ざめて、まるでその場に倒れてしまいそうでした。僕はあまりにも早く芽衣ちゃんの心の傷にふれてしまったことに気づいて、ひどく後悔して、ごめんごめんと彼女を抱きしめました。すると、あの子は違うの違うのと言って、泣き出したのです。最初僕は何が違うのか意味が分からず、とにかくなだめようと必死でした。しかし、芽衣ちゃんは泣き止まず、僕の胸の中でずっと泣きじゃくっていました。そのうちに芽衣ちゃんが何かを言おうとしているのに気がついたんです。僕はどうしたのと何度も聞きながら、背中をさすりました。そして、ようやく彼女が何を言おうとしているのかはっきり分かったんです。あの子は泣きじゃくりながら、こう言ってたんです。『ほんとはママがやったの』って」上條が放った言葉は、浩平を張り倒さんばかりの衝撃を与えた。
「僕は彼女の背中をさすりながら黙って話を聞いていました。芽衣ちゃんの母親は生まれた時から芽衣ちゃんをぶったり、叩いたりして虐待していたそうです。ある日、あんまり泣き止まない芽衣ちゃんに豪を煮やした母親はうるさいと叫んで、芽衣ちゃんの腕をつかんで吸っていたタバコを押し付けたそうです。そして、それから何かあるとすぐにタバコを出して、これを押し付けるぞと言って、芽衣ちゃんを脅したんだそうです。母親が男と同棲を初めて、その男が芽衣ちゃんにタバコを押し付けたのは、その男が始めたんじゃなくて、既に母親がそういうことをやっていたからなんです」
上條がしゃべる内容を浩平はまともに聞くことができなかった。母親が我が子を虐待するなんてことがあっていいのか、そんなことが許されていいのか、母親から虐待を受けた子供はいったい何を信じることができるというのか、愛や希望をどう信じることができるというのか……まさに地獄だ。だがこれが現実なんだ。いまこの瞬間にもこの社会のどこかで小さな魂が喩えようのない苦しみと悲しみの叫びをあげている。これこそがこの社会の現実なんだ――怒りとも悲しみとも言い難い、どす黒い感情が浩平の全身を覆い尽くした。
「僕は一度、芽衣ちゃんの母親に会ったことがあります。その女は今、上野のキャバクラで働いているんですよ。僕はあえてその女を指名して話をしました。けばけばしく化粧したその女は、いやらしくすぐに体を摺り寄せてきて、店終わったらどこかに行かないと僕に言い寄ってきました。僕は子供はいないのって聞きました。そしたら、その女はゲラゲラ笑いながらこう言いました。子どもなんて絶対欲しくないって」
二人は再び押し黙った。しばらくして上條が低い声で尋ねた。
「宮城さん、この社会に正義があると思いますか?」上條が低い声で尋ねた。
「愛だ、勇気だ、希望だって、大人たちが物知り顔で子供に教えています。だけど、この子供たちの前で本当にその価値を教えることのできるような人間がこの社会にたった一人でもいますか?」
浩平は、何も答えることができなかった。
「――そう言えば、宮城さんは、明日ツァラトゥストラと論戦をされるそうですね」上條は子供たちを見据えながら言った。
「ええ」浩平は小さく頷いた。
「あなたがツァラトゥストラに勝つことを期待しています」上條はそう言うと、芽衣のいる方に静かに去っていった。