アマチュア作家の面白い小説ブログ

素人作家がどこまで面白い小説を書くことができるか

【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(四十四)

 当日の朝、浩平は今日が本番だというのに、驚くほど自分がリラックスしているのを感じていた。昨日の一件は夜半過ぎまで浩平の心に影を落としたが一晩の睡眠でなんとか振り払うことに成功したようだった。

 この数日、浩平は外から様々なことを言われてきたが、その都度全てを聞き流してきた。浩平はツァラトゥストラがこんなことを企図した理由は、その言葉通り、衆人環視の中、権威の象徴である警察の代表とやつ自身とどちらがこれからの人類にふさわしい思想を示すことができるのか、ただそれだけだと考えていた。そして思想の是非を争うならば絶対に必要なことは、自身がその思想に殉じる覚悟があるかどうかであると固く信じていた。今更にわか知識をつけたところでどうなるでもなし、そもそも知識の量でツァラトゥストラに勝てるとも思わなかった。ただ三十三年という人生を生きてきた中で自分の中に深く根を張った信念だけを武器として戦おう、浩平の思いはただそれだけだった。

 十一時三十分、パトカーに乗せられた浩平は公園内の特設エリアに設けられた架設のプレハブに入った。そこはまるで捜査本部がまるごと移ってきたかのようにテーブルがずらりと並び、その上には電話とパソコンが何台も揃えられていた。壁には監視モニターが積み重ねられ、会場内の状況を瞬時に把握することができた。一番奥にはソファーが置かれ、その前には大型のテレビも置かれていた。浩平は十人を超える警察官が忙しそうに立ち働いている中を通って、一番奥のソファーに案内された。浩平が居心地悪そうにソファーに座っていると、サイバー班の芳賀圭介が弁当とお茶を持ってきた。

「お疲れ様です。サイバー班の芳賀です。いつぞやはご馳走になりました」

「おお、久しぶりだな。そういえば下村の一件では、いろいろ面倒かけて悪かったな」

「いや、あんなことはどうってことありません。それより、これ弁当です。早めに食べてください」

「サンキュー」そう言うと、浩平は手渡された弁当を遠慮なく開けた。

「随分、豪勢な弁当だな。こりゃ二千円はするんじゃないか。こうしてみると、たまには、こういうのも悪くないな」

「浩平さんは今や警視庁一の有名人ですからね」芳賀が笑いながら答えた。

「――ところで、尾行班の方はうまくいってんのか?」浩平はまだ湯気を立てているステーキに箸を伸ばしつつ、芳賀に尋ねた。

 

豪華な弁当

 

「はい、既に内藤ゼミのOB全員に尾行が付いています。自宅にいる場合は監視するのは難しいですが来客を装ったり電話を掛けたりして少なくてもその時間だけはパソコンを使える状態にあるのかどうかということは確認することができます。一応、それぞれの自宅のネット環境は全て調べ上げていますが、あのパソコンにどういうプログラムが組み込まれているのか分かりませんし、どこのサーバを経由してくるのかも不明なので、本人を監視するのが原始的ですが最も確実な方法です」

 浩平はステーキをほおばりながら片手でOKサインを出した。芳賀が見守る中、あっという間に幕の内弁当を平らげると、お茶のペットボトルを手に取った。

「――上條は、どうしてる」ボトルのキャップを開けながら浩平が聞いた。

「上條は現在は自宅にいます。今日の二時から家庭教師のバイトが入っているようですので、そろそろ動き出すと思われます。もし、そのまま生徒宅に入った場合はさすがに立ち入りまでは適いませんが、いずれにせよ藤原巡査部長が一時も目を離さないで監視を続けてくれるはずです」芳賀が力を込めて答えた。

「そうか」浩平はそれ以上は何も言わずペットボトルのお茶を一気に飲み干した。

「これは現在の捜査状況が一目でわかるタブレットです」

 弁当を食べ終えた浩平の前に、芳賀がA4サイズのタブレットをおいた。

「これと同じものがステージに拵えた机にはめ込んであります。テレビカメラからは見えない位置に設置したので、ツァラトゥストラからは見えません。尾行班は対象の行動を逐一入力していきます。もし尾行対象が外出なり、その他明らかにパソコンから離れているときに、宮城さんとツァラトゥストラの対話が続いていたとしたら、その対象は白ということです。そういう対象はその都度画面から外していきます」

「ということは、この画面が誰か一人になるまで頑張って討論し続けてくれってことだな」

 浩平が無造作に言うと芳賀がにやっと笑った。

「ご明察のとおりです」

 芳賀が浩平にタブレットの見方を教えていたその時、テレビから時報が流れた。浩平がテレビの上に掛けられた時計を見ると、ちょうど正午であった。それに合わせて画面が急に切り替わった。テレビの中に映っていたのは、まさに浩平が今いるプレハブだった。

「どうやらここがズームアップされているみたいですね」芳賀はそう言うと、テレビのボリュームを上げた。

『現在、私は日比谷公園の特設会場の前にいます。本日午後二時から、ここで警視庁の宮城浩平警部補とツァラトゥストラによる世紀の対決が始まろうとしています。宮城警部補は既にこのプレハブ内で待機していると思われます』

 浩平は女性リポーターが真剣な顔でしゃべっているのを見て苦笑を浮かべた。

「なんだよ、世紀の対決って。プロレスじゃないんだけどな」

「しかし、すごい人数ですね。まだ一時間もあるのに、もう五千人近く集まっているんじゃないんですか?」

 確かに、テレビの中の日比谷公園は既に大勢の人に埋め尽くされていた。

「駆り出された機動隊もいい迷惑ですね」

 芳賀のいうとおり、ステージの前には立ち入り禁止テープが張られ、完全武装した機動隊が各所に配置されていた。浩平はその光景を見た瞬間、何か恐ろしいものを見たような気になって一瞬うろたえた。まさかな、浩平は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 

 同じ頃、上條が住むアパートの前で張り込みをしていた桜は、車の中で同じ映像を見ていた。テレビ画面に映っているプレハブの中に浩平がいて、まさに準備をしているのかと思うと、なぜだか心が締め付けられるように痛くなった。なんでこんなに胸が痛くなるのか自分でもよく分からなかった。頑張ってほしいという気持ちと、無事でいて欲しいという気持ちと、自分でもよく分からない気持ちが複雑に入り混じっていた。だが、一つだけはっきりしていることがあった。桜は浩平を信じていた。ツァラトゥストラなんかに負けるような人じゃないと強く信じていた。

 ツァラトゥストラ、そうそうあなたの思い通りになんてならない。警察にだって、あんたなんかより優秀な人がいるんだから、覚悟しなさい。

 桜は体の中から燃えるような闘志が次第に沸き上がってくるのを感じた。

 

次話へ

TOP