一時三十分、浩平が芳賀とともにステージに上がると観客がどよめき、前列に並んだマスコミたちは一斉にフラッシュをたいた。ステージに上がった浩平の目には、既に一万人を超える聴衆がこの場に集まっているように見えた。聴衆? 浩平は腹の中で笑った。
確かに聴衆だな。で、この舞台を演じるのは俺とツァラトゥストラってことか。さて、最後に勝ち名乗りをあげるのは、はたしてどっちだろうな。
そんなことを思う浩平を尻目に、芳賀は梱包された箱の中からノートパソコンを慎重に取り出して机の上に置くと、インターネットにつなぐためのLANケーブルを差し込み、そしてプロジェクターのコネクタをしっかりとつないだ。そして、すべての準備が整ったのを確認すると、芳賀は浩平にこくっと頷き、袖の方に下がっていった。
浩平が椅子に座ると、芳賀の言っていたとおり左手にタブレットが埋め込まれていて、あまり顔を動かさずとも画面を確認することができた。画面には内藤ゼミOB十二人の顔写真が並べられ、その下には名前と、自宅待機とか歩行中とかいった具合に現在のステータスが併記されていた。一番右上の上條和仁のウィンドーには、生徒宅に向かって歩行中と表記され、その下には担当者として藤原桜という名前も添えられていた。それを見た浩平はかすかに微笑みを浮かべた。
浩平の目の前に置かれたノートパソコンはシルバーメタリック製のよくあるタイプのもので、一目見て目を離しかけたが、天板にレーザーか何かで焼き付けられた奇妙なレリーフがあるのに気づき、浩平は目を戻した。それは鷲と蛇が絡みあったものだった。だが、戦っているというのではなく、まるで互いを支えあっているようにも見えた。浩平は思わず、そのレリーフに手を這わせた。鷲と蛇は『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で、最も誇り高いもの、最も賢いものと例えられている生物であった。
――僕も、せめて、この鷲のように誇りだけは持っていたいと思って――
そう言って鷲を象った指輪を眺める上條の姿が脳裏に浮かんできたが、浩平はそのイメージを打ち払った。今はあらゆる先入観を捨てなくてはならない。真っ新な状態にならなければ、ツァラトゥストラに太刀打ちできない。
浩平は両手で自分の顔をバンバンと叩くと、意を決したようにノートパソコンを開き、電源スイッチを押した。パソコンが起動し、真っ青な画面に切り替わった。数秒後、画面の真ん中に獅子の顔をかたどったアイコンがたった一つぽつんと浮かんでいた。
会場がざわめいた。何かと思って浩平が会場の方を横目で見ると、観客たちが口を開けてスクリーンを眺めているのが見えた。浩平も顔を逆に向けてスクリーンの方を見つめると、そこには浩平のパソコンと同じ画面が大きく映し出されていた。
マスコミや観客のざわめきが会場内に響く中、浩平は視線を目の前のパソコンに戻すと、獅子の顔を形どったアイコンをダブルクリックした。すると実行中を表す砂時計のアイコンがポップアップ表示されたが、砂時計はそのまま凍り付いたように固まってしまった。
おいおい、プログラムミスなんてするんじゃないだろうな。何千万って人間がみてるんだぜ、これじゃいい笑いもんだろ、ツァラトゥストラさんよ。
浩平は、心中つぶやきながら再びマウスを触ろうとしたまさにその時、急に画面が切り替わった。
会場が再び大きくどよめいた。スクリーンに黒い何かが写ったようだった。浩平はパソコンの画面を注視した。画面中央には掲示板らしきものがあり、左下には自分の顔が写っていた。浩平はとっさに目をパソコンの上部に動かした。そこには内臓式のカメラがあり、そのカメラで撮影されている自分の顔が自動でアップロードされているようだった。もう一度、画面に目をこらすと、画面の一番下に別な囲みがあり、その中でカーソルが点滅していた。どうやら、ここに文字を入力していき、囲みの隣にある投稿と書かれたボタンを押して中央の掲示板に投稿させる仕組みのようであった。
浩平は自分の顔が移ったウィンドーを見ながら、内心つぶやいた。
これじゃ、ほんとに日本一の有名人になっちまうぞ。少し化粧でもした方がよかったんじゃないか。まあ幸い顔色は良さそうだな。さあ仕組みは分かったぜ。さっさと始めようぜ、ツァラトゥストラ。
浩平は時計を見た。一時五十二分だった。指定された二時まで、後八分。浩平は会場から聞こえる騒音を体から全て締め出すように目を閉じた。
そういえば警視庁の採用試験の時も、こんな風に目を閉じて控室で待っていたな。警察官になって正しい社会を実現したいんだってしゃかりきに面接官に喋ったっけ。あれから、十一年か。俺も少しは成長したのかな。
警視庁入庁当時を思い出しているうちに、あの頃の熱さが蘇ってきた。最高の警察官になってやろうという情熱、遺族を前にした時の例えようのない悲しみ、自分勝手な犯罪に対する凶暴なまでの怒り、明日は必ずいいことがあるはずだと信じて疑わなかった純真さ、そんな思いが次から次へと浩平の体のうちに沸き上がり、ここ数年感じたことがなかったエネルギーが体中に漲ってくるのを感じた。
浩平は大きく目を見開いた。腕時計を見ると、ちょうど二時を指していた。目をデスクトップに向けると、今まで空欄だった右側上部に何かが映っていた。それは宮澤拓己がうつぶせになって倒れている写真であった。会場からどよめきが上がった。ところどころから悲鳴に近いものが聞こえた。そんな中、中央の掲示板に白い文字が浮かび上がった。戦いの幕がついに上がった。