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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(四十六)

――ようこそ、ツァラトゥストラの世界へ 
多くの人が見ている中、君が臆せず、この場に出てきたことに対して、まずはその勇気を賞賛したい――

 

 文字が画面上に浮かんでいた。文章の頭には鷲と蛇が組み合わさったアイコンが置かれ、その後に文章が続いていた。その下の段にも同じように鷲と蛇のアイコンがあり、文章はまだ表示されていなかったが点線マークが点滅していた。おそらくツァラトゥストラが現在何か打ち込んでいる最中なのであろうと思われた。そして、新たな文章が書きこまれた。

――まず、私は率直に君に尋ねたい。私は犯罪者なのか?――

 浩平は大きく呼吸すると、キーボードを叩き始めた。

――インターネットとはいえ、直接、お前と話すことができてうれしいよ。質問の答えだが、お前は宮澤拓己さんを殺したことを示す物的証拠を自ら我々の前に提示した。つまり、お前には宮澤拓己さんの殺人容疑がかかっている――

――殺人容疑か、まさに君の言うとおり殺人事件が起これば、警察は容疑者を探し出す必要があるだろうな。しかし、私はあえて問いたい。いったい、殺人は悪なのか?――

 浩平の思考が一瞬止まった。殺人は悪なのかだと? 当たり前だろうが、だが、こりゃ本当に腹くくらないといけなくなりそうだな。浩平は慎重に考えた後、指を動かした。
――殺人は刑法によって、厳しく断罪される犯罪だと思うが――

――刑法を問わず、法とはその時々に応じて変更可能なルールに過ぎない。日本においては、国民から選ばれた政治家たちの二分の一以上の賛意に基づき、法の制定も改変も廃止も可能なはずだ――

――お前の言うとおり、法とは国民の意思に基づき定められる。そして、刑法は現在もなお効力を有し、国民はそれを順守する義務がある――

――国民の意思? 本当に君はそう思っているのか。法などというものは、自ら判断する力もない蒙昧な国民がマスコミに躍らされて消去法のように選び出した政治家たちによって、その時々の置かれた社会的事情に応じて成立させているものにすぎないのだぞ。完全無欠なものでもなければ、偉大な価値が刻まれたものでもない。いわば、法とは社会的構成員又は社会自体が社会的需要にこたえるために定められる最低限度のルールに過ぎない――

――殺人はあらゆる宗教において悪とされる行為だ。法律に定められたから犯罪なのではない。その行為自体が、古来より人間世界において、悪とされてきたのだ――

――君のいうことについて、二つの点で疑問がある。一つは、君は殺人は悪だというがこの世界では戦争という名を借りて大量の殺人が行われているではないか。戦士が銃で相手を殺すことは犯罪なのか? 爆弾を落として非戦闘員を含む多くの人を殺した人間は、犯罪者として罰せられるのか――

――戦争は非日常な空間だ。我々が言っているのは日常の世界における殺人のことを言っているのだ――

――何をもって日常と非日常を定義するのだ。テロリストたちが権力者に立ち向かうとき、体制側から見ればテロリストは犯罪者だろうが、革命が成し遂げられたとき、テロリストたちは英雄と呼ばれ、体制側の人間こそが犯罪者となり弾劾される。革命を成し遂げられるためになされた全ての行為は後に全て偉業と称えられる――

――お前は革命者として、この社会を崩壊させようというのか――

 浩平の指が少し震えた。

――その答えを言うのは、今少し待とう。さきほど私は二つの点で疑問があるといった。もう一つの疑問について尋ねたい。君は、人が人を殺すのは悪だといった。だがなぜ、人を殺すことだけが悪なのだ。この世界には人だけでなく、数えきれないほどの生命が生きている。それらの生命を殺すことは悪ではないのか。君は殺人はあらゆる宗教において悪とされるとも言ったが、犬や猫、牛や羊、魚や虫に至っても尊い生命ではないのか。仏教では生きとし生けるものには全て仏性があると説いている。他の宗教においても動物を聖なるものとするものも多い。命とは種別貴賤を問わず、唯一無二のものではないのか――

――そこまで分かっているなら、命がどれだけ尊いか、無駄に命を奪う行為がどれだけ罪深いかお前はよく知っているはずだ――

――その通り、命は全て尊い。そこで私はまた新たな疑問を感じる。刑法第百九十九条では『人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する』とうたっているが、同じ刑法第二百六十六条では、動物を故意に殺傷したものは『他人の物を損壊し、又は傷害した者は、三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料に処する』とされている。いわば、動物はモノとして扱われ、動物を殺す行為は器物破損罪が適用されるに過ぎない。しかも、それは人間の所有物であることが絶対条件で、野良猫を殺したとしてもなんらの罰則はない。いや、動物の命を守るために動物愛護法が施行されているではないかと君は言うかもしれないが、それだとて話の筋は何も変わらない。結局、動物を殺したところで、人は決して死刑にはならない。私は思う、なぜ尊い生命なのにこれほどまで、法の扱いが違うのか。それは法というものになんらの真理もなく、あまりにも不完全な代物だからではないのか――

――刑法がそう定めているからと言って動物の命が人間の命より軽いというわけではない。法は道徳ではない、お前がさきほど言ったように、人間が社会で生活するための最低限度のルールにすぎない。その最低限度のルールでさえも人類は長い年月をかけて権利を勝ち取りながら、より良きものにしてきたのだ――

――君の言うとおりだ。法に定められた権利は人類が苦難の果てに掴み取ってきたものだ。人間が人権を持つということすらも、わずか数百年前に説かれたにすぎず、それが法として定められ、人権が法によって明確に守られるようになったのは、せいぜいこの百年以下のことだ。かつては奴隷の命は動物と等しく、人種、身分によっても命の重さには軽重があった。なぜそれが今では誰もが平等に権利を有するようになったのか。それはまさしく、権利を求める人々が多くの犠牲を払い、流血と辛苦の中で勝ち取ってきたからだ。だからこそ、身分を問わず殺人は犯罪とされるに至ったのだ。もし犬や猫が我々に反旗を翻し、自らの権利のために流血を覚悟で人類に戦いを挑み、我々に大きな痛手を与えたとすれば、きっと刑法第百九十九条はこう書き換えられるだろう。『人又は犬や猫を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する』と。私が冗談を言っていると思うか、違う、生まれついての権利があるから、権利があるのではない。勝ち取ってきたからこそ、権利が法として認められたのだ。そこでまた、最初の問いに戻ることになる。なぜ殺人は悪なのかと。第一の疑問から、殺人という行為が認められる時と場合があるということが分かった。そして第二の疑問から、殺人という行為に伴う罰則は時と場合によって異なるということもまた明らかとなった。以上の点から、殺人という行為を罰する絶対的な根拠など法には何もないことになる。絶対的な根拠がなく殺人を行うことの罰則が時代によって相対的なものとして定められているのだとしたら、殺人によって得られる成果が、殺人をすることによって発生する損失よりもはるかに上回れば殺人は許容されるはずだ――

――お前の言うことは詭弁だ。人間は誰であっても生きたいと思う。どんな理由があれ、それを他人が奪うことは許されない――

――どんな理由があれ、人が他人の命を奪うことは許されないと君は言うのか。それこそ、人間が作り出したまやかしの幻想だ。必要があれば人間は命をかけて争わなければならないのだぞ。餓死寸前の極限状態では人間は人間を殺して食べることも厭わなかった。沈没しかけた客船に乗っていた乗客は、たった一艘のボートのスペースを奪って殺しあった。強盗にあったものが、家族を守るために強盗犯を射殺することは正当防衛として認められる。生命は全て戦いの中でその命を燃やす。人間とて同じだ。人間は戦わなければならないのだ。そして、戦うからこそ価値があるのだ。蛇に睨まれた蛙のようにただぶるぶると殺されるのを待つような人間にいったいどんな価値があるというのだ。人を守るのは法ではない、己自身でなくてはならないのだ――

――戦えないような弱者は生きる価値がないというのか――

――弱者と呼ばれながら、懸命に人生を戦っているものは数多くいる。そういう者たちは弱者とは言わない。生きる価値がない本当の弱者とは、戦う勇気がないものたちだ。自分で獲得する力もなく、ただ遺産を食い散らかすしか能のないものたちだ――

 ツァラトゥストラの言葉が一度途切れた。浩平は反論しようとしたが再びツァラトゥストラが書き込もうとしていたので、それを待った。今度は少し時間がかかっているようだった。その間に浩平は芳賀が準備したタブレットの方を見た。そこには既に七人の顔写真しか残っておらず、五人が既に画面から消え去っていた。だが上條のウィンドーはまだ一番上に残っており、生徒宅で家庭教師中と表記されていた。結論を出すにはもう少し時間が必要であった。浩平が掲示板に目を戻した。そこにはかなり長文の投稿が投稿されていた。

 

ステージの上でパソコンに向かう男

 

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