「さあ、ついたよ」運転手が言った。
外に出ると、そこはいくつかの民家が集まっている集落の真ん中だった。あたりはしんとして人一人歩いておらず、やむなく浩平は家々を覗き込むようにして表札を確かめながら、道を歩いて行った。
ある家の前に立った浩平は表札に菅原と書いてあるのを見つけた。家の前には白い軽自動車が停まっており誰かがいることは確かなようであった。インターホンはなかったが玄関の開き戸は少し開いていたので、浩平は恐る恐る戸を開けながら「すいません。どなたかいらっしゃいますか」と大きな声をあげた。
「は~い」と中から元気な女性の声が聞こえ、すぐに、二十歳前後の愛くるしい顔をした女性が玄関に現れた。
「すいません、菅原百合子さんのお宅でしょうか? もし、ご在宅でしたら少しお話をさせていただきたいと思いまして」浩平はそう言って、胸ポケットから警察手帳を取り出そうとしたが、そこにはもう手帳がないことに気づき「あの、私警視庁の宮城というものです」と付け加えた。
「母は裏の畑にいますから今呼んできますね、どうぞ中でお待ちください」そう言うと、その若い女性は浩平を居間の方に案内した。そして浩平を座布団に座らせると「少しお待ちくださいね」と言ってどこかに走っていった。
浩平が通された居間は和室で障子戸になっていたが全て開け放たれていて、中庭が良く見えた。そこには竜胆や秋桜などの秋の花が咲き乱れ、この家の主人が花好きなことを感じさせた。その先には、さきほど見た焼石岳が雄大な姿で聳えており庭の花々と見事なコントラストを見せていた。
「すいません、お待たせしまして」そう言って入ってきたのは、四十前後の色の白い綺麗な女性だった。
女性は席に座ると、「菅原百合子と申します」と言って深々と会釈したので、浩平も慌てて、「警視庁の宮城浩平と申します」と頭を下げた。型通りの挨拶が終わると、さきほどの若い女性がお茶を運んできた。どうぞと言って、浩平の前にお茶とお茶菓子を置いたその娘も陶器のように真っ白で美しい肌をしていたが、生き生きとしたその目からはあふれんばかりのエネルギーを感じさせた。
「これは、私の娘の絵梨といいます」百合子はそう言って、浩平に絵梨を紹介した。
「警視庁の宮城浩平と言います――突然、恐縮です」
重々しく頭を下げる浩平を見てくすっと笑うと、絵梨と呼ばれたその女性は軽くお辞儀をして部屋を出て行った。
「どうも、すいません。こんなものしかお出しできなくて」
「いやご迷惑を顧みず、突然お邪魔して大変申し訳なく思っております」
「――ところで、今日はどのような御用で」何か恐いものを聞くように百合子が言った。
浩平は姿勢を正した。
「ご存知かもしれませんが、甥御さんである上條和仁さんの大学の先輩にあたる宮澤拓己さんが何者かによって殺害されました。私はその事件を担当している刑事ですが――」とそこまで言って、浩平は既に自分にその資格がないことに気づいたが、ままよとばかりに、「宮澤さんと交友の深かった上條さんの生い立ちや性格について、もう少し知りたいと思って、本日伺った次第なんです」と言った。
百合子は少し考えていたが「以前、藤原さんという女性の方からお電話がありましたが、その件ですか?」と尋ねた。
「はい、藤原は私の部下です」浩平が答えた。
「そうですか」そう言うと百合子はしばらく押し黙ったが、思い切ったように口を開いた。
「宮城さんと申しましたか。あなたは、和仁に会ったことはありますか?」
「はい、何度か話をしました」
「それであの子はどんなことをあなたにお話ししましたか?」
浩平は百合子の目をみつめると、「和仁君は、自分は母親に大変な苦労をかけてきた。母親の死に直面して一度は死ぬことさえ考えたこともあると言っておられました」と重々しく言った。
「そんな……」百合子が絶句した。
「上條君は以前私に、自分の父親だった男は人間の屑だったと言ってました。その男にタバコを押し付けられたこともあるとも言いました。教えてください、一体上條君はどんな家庭で育ったんですか?」浩平が百合子に詰め寄った。
百合子は、言っていいものやら思い悩んでいる風だったが、「――そうですか、和仁はあなたにそんなことまで話したんですね。よほど、和仁に気に入られたんでしょうね」そう言うと、決心したように話し始めた。
「あの子の母親は私の姉にあたります。姉は高校を卒業後、東京に出て行きました。昔からバレエが好きで、バレリーナを目指していたんです。東京でアルバイトをしながら、バレエの教室に通っていました。東京に出て間もなく、姉はバイト先で一人の男と出会いました。今思えばなんで姉があんな男に魅かれたのか分かりませんが、ともかく二人は付き合うようになりました。そして妊娠してしまったんです。姉が恐る恐る実家に帰ってきて、このことを告げると父は大変怒りました。東京に行くことすら反対していたのに半年もたたないうちにどこの誰だか分からない男の子供を身ごもったと知って、それこそ激怒したんです。怒っただけじゃありません、姉をつかむと外に放り出し、二度とこの門の敷居をくぐるなと言って家から追い出したんです」百合子は寂しそうに言った。
「父は昔気質のところがあったので、そういうことが許せなかったんだと思います。ましてやこんな田舎ではそういう話はすぐに広まりますし、自分の身内の恥を陰でこそこそ言われるのが父親には耐えられなかったんでしょう。それにもう一つ父が許せなかったのが、その男から詫びの一言もなかったことでした。実際、その男は姉が妊娠したと知ると、あからさまに嫌な顔をして、まだ遊びたいから結婚するつもりなんてないと言って、子供は堕ろしてしまえと捨て台詞のように言い残して、姉を捨てたんだそうです。でも姉は一人でも生む覚悟をして、そして一人の男の子を生みました。それが和仁です。生まれて数か月は、わずかな貯えと国からもらう手当だけでなんとか暮らしていましたが、それだけで足りるわけがありません。姉は和仁をおぶってでもできる仕事をいろいろ探して、それこそ血の滲むような苦労をしてたった一人で和仁を育て続けました。それから三年ほどたったころ、その男が突然姉のもとに現れました。男がなんと言って姉を説き伏せたかは知りませんが父親は父親です。結局一緒に住むようになったのですが、それは地獄の始まりでした。男は働きもせず姉の収入に頼ってばかりで、わずかな金を巻き上げるとギャンブルに使い果たす毎日でした。終いには和仁は俺が面倒見ててやるから夜の店で働けと言って、姉に風俗まがいの仕事までさせました。酒癖も悪く、酒を飲んで少しでも機嫌が悪くなると、姉を殴り、足蹴にしました。それでもいつか改心してくれると思ったんでしょうか、姉はずっと耐え続けていたんです、あの日までは」言葉を止めた百合子の顔は青ざめていた。
「その日、姉はいつものように夜遅くに帰ってきました。ところがドアを開けると凄まじい鳴き声が聞こえてきたんです。慌てて中に入ると、男が鬼のような形相で三歳になったばかりの和仁の腕にタバコの火を押し付けていたんです。その後のことは姉もよく覚えていないと言っています。和仁を男からひったくるとその足で駅に走り、そこで夜を明かして始発の電車に乗ってここに帰ってきたんです。姉は和仁を抱いて実家の門を叩きました。そして出てきた父の前に土下座して、なんとか家に住まわせてほしいと懇願したんです。でも父は許してくれませんでした。お前とは縁を切ったはずだ、二度と顔を見せるなと言って戸を閉めたんです。
途方に暮れた姉はふらふらになりながら、私の家を訪れたのでした。あの時の姉の姿はいまだに忘れることができません。姉は私が玄関に出ると茫然とした顔をして『お願い、ゆりちゃん、この子に何か食べさせて』と言って、そのまま倒れるように崩れ落ちました。
私は慌てて姉と和仁を家に上げて介抱しました。翌日、ようやく目を覚ました姉は、私にありがとう、ありがとうって何度も頭を下げました。私は『何言ってんの、姉さんの子供は私の子供と同じでしょう』と言って、父の気持ちが変わるまで、ここで一緒に暮らそうって言ったんです。でも姉は『それはだめ、あなたは絵梨ちゃんを育てなきゃいけないし、旦那さんも大変な時期だから、迷惑をかけたくない』と言って、どうしても承知しないんです。実は私もその頃、絵梨が生まれたばかりで、しかも結婚した夫が生まれつき体が弱かったものですから、夫と子供の二人の面倒を見なければいけなかったんです。結局、姉は市営住宅を借りて和仁と二人で生活することになりました」