『山小屋』の二階に浩平と桜と、そして芳賀の三人が集まっていた。
芳賀は呼び出されたことになんの違和感も抱いていないようで、店に着くとすぐにビールを注文し、ごくごくと旨そうに飲んでいた。
「ちょっと、今日は真面目な話があるっていったでしょう。あんまり飲みすぎないでよ」
桜がたしなめると芳賀は、「謹慎中の宮城先輩に大事な話があるなんて言われれば、だいたい、何しようとしてるか検討はつきますよ。大方、また独断で何かやらかすつもりなんでしょう」とあっけらかんと言った。
桜ははっとしたように浩平の顔を見たが、浩平は気にするそぶりも見せず、
「芳賀、さすがだな。お見込みのとおりだ。それでお前にしか頼めないことがあるんだが手伝ってくれないか?」と茶碗酒を口に運びながら淡々と言った。
芳賀はジョッキをテーブルに置くと浩平の顔をみつめた。
「本気ですか」
「ああ、本気だ」
「もう、あとはないですよ」
「ああ、分かってる」
「じゃ、なんで、そこまでしてやるんですか」
浩平は微笑した。
「納得するためだ」
「納得?」
「ああ、警察官として過ごしてきたこれまでの人生は正しかったと納得するためだ」
「それだけですか」
「ああ、それだけだ」
浩平の答えを聞くと、ふふと芳賀が笑った。
「――宮城先輩の実家は造り酒屋でしたっけ?」芳賀が急に話を変えた。
「ああ」
「じゃ、僕が首になっても、ちゃんと雇ってくださいよ」芳賀はそう言うと乾杯するようにジョッキを上げた。浩平はにやりと笑った。
「いいけど、当分見習いで給料出ないからな」
「そりゃ、ひどいっすね」
「私も雇ってくださいよ。先輩!」途中から桜が割り込んできた。
「お前、酒屋なんてできるのかよ、どっちかと言ったら飲む方だろ」浩平が呆れたように言った。
「それは先輩のほうでしょう。それにハッカーよりも私の方が日本酒の味は分かるんですよ」
「確かに俺はビール党なんで」芳賀がそう言うと三人は大笑いし、杯をぶつけた。
「ところで、捜査本部の方はどうなってんだ。何か次の一手を考えているのか?」
乾杯も終わり、岩手での一件や佐々木からの聞き取り結果についての情報共有がなされた後、浩平が桜に尋ねた。
「全国的に多発しているツァラトゥストラまがいの事件に翻弄されて、捜査方針もあってないようなものです。唯一、あの討論のときに確たるアリバイがなかった上條には、現在二十四時間体制で張り込みがついてますが、今のところ何の進展もありません。それどころか今やツァラトゥストラは主義主張の旗印にまでなっていて、抗議集会や抗議デモでは参加者がツァラトゥストラの紋章を振りかざして、もう、手に負えないって感じです」桜が投げやりな感じで答えた。
「サイバー班ではプログラムとアクセスについて解析してますが、まず、宮城先輩とツァラトゥストラとが対決したチャットプログラムは市販のものではなく独自開発されたもののようで、現在ネット上でこのフリーウェアソフトを提供しているサイトがあるかどうか調べています。プログラムファイルの本体はアメリカの会社が運営するフリーサーバに置かれていて、あのノートパソコンにあった獅子のアイコンはそこにつなげるための起動ファイルの役割しか果たしていません。現在、ICPOを通じて、サーバの運営会社にプログラムファイルのコピーとアクセスログを提供するように要請していますが少し時間がかかりそうです」芳賀はそう言うと、三杯目のビールを美味そうにあおった。
「――そう言えば、一つだけ妙なものがありました」そう言うと芳賀がカバンからカラー写真を取り出した。
「あのノートパソコンの内部にあのアイコンファイルとは別に、もう一つ用途不明のファイルがあったんです。それがこれです」そう言うと、芳賀はパソコンのファイル一覧が映ったスクリーンショットの写真を取り出した。
「ファイルの名前は『Ich』、これは圧縮されているので、どんなフィルか分かりません」
浩平が写真を見ると、確かに『Ich』 と書かれたファイルが一つだけあった。
「『Ich』、確かドイツ語で『私』って意味じゃなかったか?」浩平がつぶやくと芳賀も、
「そうだと思います」と答えた。
「開いてみたのか?」
「はい、他に手掛かりもないのでリスクを承知で開いてみたんですが、暗号を求めるメッセージが出てきただけでした」そう言って、芳賀がもう一枚の写真を差し出した。
写真には、画面中央にメッセージが表示されており、そこには、『インターネット環境下で四桁のパスワードを入力せよ。ただし、チャンスは一度のみ。失敗すれば、このファイルは闇の中に消え去り、二度とこの世に現れることはない』と書いてあった。
「で試したのか?」浩平は聞いた。
「いや、さすがにそこまでは踏み切れなくて、このままの状態で保存しています」
浩平は写真を見ながら考え込んだ。四桁のパスワードに『Ich』という名前のファイル。新しい謎を突き付けられたような浩平だったが、諦めたように写真を芳賀に返すと酒を一口飲んだ。とりあえず、今は目の前のことに集中するしかない。浩平はそう思った。
「それじゃ、いよいよ作戦会議と行くぞ。その前に改めて言っておく。これは警視庁始まって以来の大スキャンダルになる。失敗すれば俺たちは警察を追われ、一生恥をかくことになるかもしれない。それでも俺につきあってくれるか」浩平は桜と芳賀の二人を見つめた。
「そんなこと、もうとっくに決めちゃってるんですから、一々言わなくていいですよ」
桜は、少し怒ったような声で言った。浩平は苦笑すると芳賀の方を見た。
「もう、宮城酒造に就職希望出しちゃったし、乾杯の契りまで結んじゃったので諦めて宮城さんについていきますよ」そう言うと、また、ジョッキを持ち上げたが、「――でも、僕は負け戦はきらいなんで、やるからには勝つつもりでやりますよ」とにやっと笑った。浩平はそれを聞くと、同じように不敵な笑みを浮かべながら湯飲み茶わんを掲げた。
「ああ、俺も負けるのは嫌いだ。やるからには絶対に勝つ」