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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(六十)

 上條は現行犯で逮捕され、捜査本部に身柄が拘束された。アパート内は隈なく調べられ、クローゼットの中から3Dプリンタで製作したと思われる白い拳銃一丁が発見された。パソコンには宮澤殺害時の写真と警視庁に送られたものと同じ文書のファイルが保存されていた。また、デスクトップ上には鷲の形をしたアイコンがあり、これが例のプログラムを起動するものであることが上條自身によって示された。アイコンをクリックしてプログラムを起動すると、そこにはそれまでの浩平とのやり取りが全て残されていた。以上をもって、宮澤拓己殺害及びツァラトゥストラによる一連の扇動罪の決定的な証拠とされた。

 捜査本部において、より詳細な取り調べがなされたが上條は非常に協力的で九月二十五日の第一回目の対決の際は家庭教師をしている生徒宅で浩平との討論に臨んだことを明らかにした。生徒にはどうしてもやることがあるから、その日だけ家庭教師をしているふりをさせてくれないかと無理やり頼み込んで別室を借りてパソコンに向き合ったと供述した。ただし、この生徒はこのこと以外、事件には一切関与していないことを繰り返し述べた。

 それを受けてその生徒宅において事情聴取がなされた。最初その女性徒は上條先生は何も悪いことするわけないと黙り続け、そのうちに泣き始めて捜査員を大いに手こずらせたが、おいおい泣き止むとようやく話し始め、その時間に上條が隣の書斎に一人こもっていたことを白状した。

 この事件の動機については声明文や浩平との討論で述べた通り、人間の考え方を改め、少しでも社会がより良い方向に進むようにしたかったとのことで、青木健三殺害事件を始め、ツァラトゥストラの声明によって引き起こされた事件の責任は全て自分一人にあると述べた。ただし、拳銃の製作方法や宮澤と内藤を殺した動機や手段については、それだけは黙秘しますと述べるだけで、何一つ明らかにしようとしなかった。しかし、物的証拠と本人の自白により証拠は十分とみて、ツァラトゥストラ事件は全て解決とされた。それに伴い、浩平の停職処分は一年から一か月へと大幅に軽減されることが決定した。


 いつもの「山小屋」の二階に浩平と桜と芳賀が揃っていた。机の上には秋刀魚の塩焼きや鯵と鰹の刺身盛り、極太の鮭の切り身が入った石狩鍋が所狭しと並べられていた。事件の解決祝いと浩平の停職軽減祝いとを兼ねて、桜と芳賀が企画したものだった。

「とりあえず宮城先輩、刑期短縮おめでとうございます」

「刑期短縮なんて言われると、刑務所から出てきたみたいだけど、やっぱり、しゃばの魚は最高だな」そう言うと、浩平は今が旬の戻り鰹に手を伸ばした。

「確かに処分が決まるまで、ずっと警視庁に軟禁されてましたからね」芳賀が憐れむように言った。

「まだ良かったですよ。近藤管理官なんて、留置所に入れとけって言ってましたからね。ほんと首にならないだけ、ありがたいと思わないと」桜が情け無用とばかりに言った。

「しかし、宮城酒造で働くチャンスを逃しちゃったな」芳賀がいかにも残念そうに言った。

「どうせ働く気なんてなかったんでしょう」

「まあ、確かに僕はビール党なんで、どうせ働くならビール醸造所の方が良いなとは思いましたけど」

「やっぱりね」桜が芳賀を睨んだ。

「いやいや、人それぞれに向いた仕事があるからね。だいたい警視庁のサイバー班は僕がいないと務まらないでしょう」

「ったく、調子いんだから」

「まあ、俺も酒売るより飲む方がいいからな。芳賀と大して変わらないな」二人の会話を楽し気に聞いていた浩平が口を挟んだ。

「ってことは、本気で働こうと思ってたのは私だけってことですか」桜が憮然とした表情で言った。

「いや、別に奉公人として働かなくても、宮城酒造の御曹司の奥方として酒屋を切り盛りしても良いんじゃないの?」芳賀が何食わぬ顔で言うと、浩平が思わず酒を噴出した。

「ちょっとあんた何言ってんのよ」桜の顔が真っ赤になった。

 芳賀はそんな二人を見比べながら笑った。

「――そんな悪い案でもないと思うけど、まあ、これは人がとやかく言う問題でもないし」

「あたりまえでしょう」桜がつんとそっぽを向いた。

「まあ、それはさておき、あのとき上條が現れなかったら、ホント僕たちどうなってたんでしょうね」芳賀が心底ほっとしたようにつぶやいた。

 芳賀のつぶやきを聞いて、浩平と桜も改めて感慨深い思いにかられた。

「先輩、あそこで上條が出てくるって確信あったんですか?」桜が浩平に尋ねた。

「いや。ただ、もしツァラトゥストラが上條だったら、きっと俺の呼びかけに反応するだろうとは思ってたよ」

「どうしてですか?」

「――なんでだろう。理由は正直俺にもよく分からない。でも、それだけは確信があった」浩平はそう言うと酒を口に含んだ。

「じゃ、もし、ツァラトゥストラが上條じゃなかったとしたら?」

「そしたら、そいつは出てこなかったろうな。でも、ツァラトゥストラが上條じゃなかったら、それならそれでよいと思ったよ」

 桜は浩平の答えに首を傾げた。

「前に言ったろ。人間は思想に感動するんじゃない、思想を説く人間に感動を抱くんだって。だから、ツァラトゥストラが上條以外の人間だったとしたら、そんなやつがいくらネットで騒いでも、いずれ下火になるだろうなって思ってただけさ」

「じゃ、もし私たちが上條を捕まえることができなかったら社会は大変なことになってたかもしれないってことじゃないですか」

「ああ、あいつは本当にこの社会を破滅に導く指導者たりえたかもしれない」浩平がそう言うと、桜と芳賀はしばらく押し黙った。

「――でも、まだ分からないんですよね。いったい上條はどうやって、宮澤と内藤を殺したんでしょうね」桜がつぶやいた。

 その点だけは浩平も引っかかっていた。上條には完璧なアリバイがあり、宮澤と内藤を殺すことは不可能だった。では上條は否定しているが、やはり誰か共犯者がいたというのか。しかし、その考えはどうしても浩平には馴染めなかった。

「宮澤が戦う相手って上條だったってことでしょう。だけど、その上條を佐々木の家に泊めるよう指示したのは宮澤なんですよね。いったい、どういうことなんでしょうね」桜がぼそっとつぶやいた。

 浩平の脳裏に宮澤を慕う井上浩太や小川結子、そして宮澤の父らが語る宮澤の人となりが浮かんだ。思想でも頭脳でも性格的にも宮澤という男は完璧な男だった。もし完璧な男を形容するならば、まさにあの男以外にいないだろう。上條ですらあの男に勝てるだろうか。それに上條がアリバイ工作をするのなら分かるが、上條を佐々木の家に留めておけと命じたのは宮澤当人だという。桜の言うとおり、一体どういうことなのか。その点については、いまだ浩平にも判然としなかった。

「ああそう言えば、この前話した『Ich』というファイルのことを上條に聞いたんですけど、それも黙秘しますと言われましたよ。とにかく黙秘しますの一点張りで……というか」芳賀は舌打ちして困ったような顔をした

「どうした」浩平が芳賀の顔を見た。

「いや、なんだか僕が言っている意味が分かってないというか……そんな感じがしたんですよね」

「分かってない?」

「いや、コンピュータ関係の仕事してると専門的な用語を使うことが多いんですけど……」

 桜はピンときたように「わかる! IPとかSSKとかでしょう」と叫んだ。

「SSKはスポーツメーカーの名前だって。お前が言おうとしたのは、Secure Socket Layer、略してSSLのことだろ。主に通信の暗号に使われる仕組みだよ」芳賀は呆れたように言った。

「そんなの一般人には縁がないから知らなくたって別にいいじゃない」桜がふくれ面をした。

 浩平は桜と芳賀の会話を聞いているうちに、ずっと感じていた違和感を思い出した。

「なあ芳賀。一般の人間、いわゆるネットワークやパソコンの専門的な知識がない人間が今回のようなシステムを組むことは可能なのか」

「そうですね。ちょっと難しいかもしれませんね。簡単に追跡されないアクセスルートを構築するのはセキュリティシステムにある程度知識がないと難しいかと思います。それに、ようやくチャットプログラムのコピーファイルがアメリカから送られてきたので解析してみたんですけど、あれは完全に自作です。ソースコードのところどころに獅子とか鷲とか蛇とかいろいろ遊び文字が入ってましたから」

「……セキュリティシステム……自作プログラム」その言葉は、浩平の頭の中のある記憶と瞬間的に結びついた。

「宮澤はセキュリティシステムに精通しているし、プログラムも書いたことがあるはずじゃなかったか」唐突に浩平が叫んだ。

「――そう言えば、学生時代にプログラムソースを書いてコンテストで賞を取ったこともあったはずです」桜も思わず声をあげた。

「それじゃ、あのシステムを組んだのは宮澤ってことですか?」芳賀が信じられないというように言った。

「それ以外考えられない。だとすると、その『Ich』ってファイルも宮澤が……おい、何か宮澤に関して四桁の暗号を想起させるようなものはなかったか?」浩平が二人に声を掛けた。桜は手帳を取り出し、過去のシーンを思い出すようにページを捲った。芳賀もカバンから資料を取り出すと一枚一枚じっくりと目を通し始めた。

 四桁の暗号? 浩平も今まで宮澤について聞き取りした中でそれらしきものを思い出そうとしたが何も思いつくものはなかった。やむなく芳賀がバッグから取り出した資料を手に取って一枚一枚眺め始めたが、ある一枚の写真が浩平の注意を惹きつけた。それは上條から押収したあの鷲の姿をモチーフにしたシルバーリングの拡大写真だった。ドイツのザクセンで宮澤が買ってきたという指輪、佐々木は蛇を選び宮澤は鷲を選んだ。そして宮澤から譲られたと上條が語っていた、あの指輪。

――鷲はこの地上で最も誇り高い生き物と言われているんです。僕も、せめて、この鷲のように誇りだけは持っていたいと思って――

――なあ、隼人、俺はこの鷲のように最も誇り高い人間にきっとなってみせる。だから、お前は、この蛇のように最も賢明な人間になれ。そして、俺たちでこの世の中を変えていくんだ――

 上條と宮澤が憧れた最も誇り高き動物。浩平は感慨深げにその写真を眺めていたが、写真のある一点に目が釘付けになった。浩平は写真を手に持ったまま茫然としたようにつぶやいた。「今から、捜査本部に戻るぞ」

 

鷲をモチーフにした指輪

 

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