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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(六十一)

 三人は証拠品保管室の受付の前に立っていた。

「先輩、説明してくださいよ。いったい、どうしたっていうんですか」

 浩平は桜の言葉が全く耳に入ってないかのように証拠品の閲覧申請用紙に記入していた。書き上げた申請書を受け取った担当者は明らかに不審げな様子で三人を見つめたが、浩平のただならぬようすを見ると、何も言わず奥の方に指定された品を取りにいった。

 しばらくすると担当官が戻ってきて、ビニールに入った証拠品を三人の前に置いた。中にはあの指輪が入っていた。浩平は脇においてあった手袋をはめると、注意深く指輪を取り出した。そして、しげしげと眺めた後、確信しようたように言った。

「なあ、桜。佐々木が言ってたことを覚えているか」

「なんのことですか」

「佐々木はこう言ってた。『リングの内側にイニシャルを掘ってもらえるんです。だから、お互い彫ってもらって、店を出てから公園のベンチに座って見比べあった』って――だが、これを見てみろ」そう言うと、浩平は指輪を二人の前に差し出した。二人は覗き込むようにそれを見つめたが、その途端、二人の眼が大きく見開いた。

「――分かったろ。その指輪にはイニシャルなんて彫ってない」

 浩平の言うとおり、指輪の内側にはイニシャルと思しき文字は書かれていなかった。よく見ると、指輪の内側は一度溶かして塗りなおしたような跡があり、その上に再度文字が刻まれたようであった。そこに刻まれていたのはドイツ語とアラビア数字が組み合わさったものだった。しかも、そのアラビア数字は他の文字よりも妙に大きく彫られていた。その数字は0825と読めた。

「これドイツ語だよな、誰か読めないか?」浩平は桜と芳賀に聞いた。

「ちょっと待ってください」そう言うと、芳賀は指輪を手に取りまじまじとみつめた。

「大学以来なんでうろ覚えですが――えっとですね『一九〇〇年八月二十五日 この日、哲学者ニーチェは人間を捨て去り、超人ツァラトゥストラが誕生した』ですかね。西暦はローマ数字、月日だけはアラビア数字で書いてます」

「八月二十五日……人間を捨て去り、超人ツァラトゥストラが誕生した……」浩平がうつろな目でつぶやいた。その時、桜が声をあげた。

「宮澤拓己が死んだ日は、八月二十五日です」


 近藤を始め多くの捜査官が捜査本部に並べられた椅子に座っていた。浩平も特別に参加を許され、端の方に席を占めていた。捜査員たちの正面にはスクリーンとプロジェクターが設置され、その脇には長テーブルが一つ置かれ、あの蛇と鷲の紋章が刻まれたシルバーメタリックのノートパソコンとともに芳賀が落ち着かない様子で座っていた。
 開始時刻になったのを確認すると芳賀が立ち上がり、少し緊張した面持ちで言った。

「ただいまから、ツァラトゥストラが残した『Ich』と呼ばれる秘密ファイルの復号作業を行いたいと思います。ご承知のとおり、このファイルを復号化するためのパスワードの入力の機会は一回限りと指定されております。上條はこの件について一切黙秘を続けておりますので、これが最初で最後の機会になると思われます」芳賀の声はざわついていた室内を一瞬にして静寂に変えた。

 芳賀の合図で室内の照明が消えた。芳賀は席に座り直すと、ゆっくりとパソコンのカバーを開き電源ボタンを押した。声もない室内にパソコンの起動音が鳴り響いた。突如、正面のスクリーンに青い光が放たれ、室内を薄く照らした。しばらくすると浩平にとって馴染みのある画面が写しだされた。画面の真ん中にたった一つだけある獅子のアイコン。そう言えば、上條のパソコンではアイコンは鷲の形をしていたそうだ。俺は獅子であいつは鷲か、浩平は一瞬そんなことを思った。

 芳賀は黙々とマウスを動かしていた。パソコン本体のファイル一覧画面を呼び出すと、手際よく一つのファイルを探し当てた。芳賀はそのファイルをダブルクリックした。するとメッセージ画面が中央に現れた。そこには以前芳賀が言ったとおりの言葉が並んでいた。

『インターネット環境下で四桁のパスワードを入力せよ。ただし、チャンスは一度のみ。失敗すれば、このファイルは闇の中に消え去り、二度とこの世に現れることはない』

 そして、その文字の下にはパスワードを入力するためのボックスがあり、その中でカーソルが点滅していた。

 室内が再びざわめいた。芳賀は前列の端の方で桜とともに座っている浩平を見た。芳賀の顔は極度に緊張しているようだった。浩平はそんな芳賀に力強く頷いた。芳賀は浩平の頷きに応えるように軽く頷くと覚悟を決めたように0825という四桁の数字を入力し、実行キーを押した。その瞬間、そこにいる全員が緊張した面持ちで画面を凝視したが、一瞬の後、何事もなく画面上に『Ich』と命名された復号化フォルダが現れ、そしてフォルダが自動的に開いた。フォルダの中には『Ich』と名付けられた蛇のアイコンファイルがたった一つ浮かんでいた。とぐろを巻いて厳しい目つきをしたその蛇は、まるで捜査員たちを睨みつけているかのようであった。

 

蛇のアイコン

 

 しばらく放心したように画面をみつめていた芳賀であったが、ようやく我を取り戻し、マウスを蛇の上に重ねた。そして慎重にファイルをダブルクリックした。しばらくは何も起きなかったが、数秒後、スクリーンが真っ黒になった。

 よく見ると、どのパソコンにもインストールされている標準的な動画閲覧ソフトが起動していた。何かの動画がインターネットからダウンロードされているようで、矢印のアイコンがグルグル回っていた。捜査本部はしんと静まり返っていた。誰も彼もただ息を飲むように黙って画面を見つめていた。

 突如、オーケストラが室内に鳴り響いた。思わず桜は飛び上がりそうになったが、よく聞くと、その曲は桜も知っている曲だった。シュトラウス作曲『ツァラトゥストラはかく語りき』、ツァラトゥストラ事件が世間を騒がせるようになって以来、テレビやラジオでこの曲がよく流されるようになっていた。

 その壮大なオープニングとともに画面が急に明るくなった。そこには一人の初老の男が映っていた。それは埼玉県のマンションで不審死を遂げた帝都大学文学部の元教授、内藤昌之であった。

 

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