内藤は音楽を楽しむかのように、ワインを手にソファーでくつろいでいた。
「もう準備はいいのかな? そうか、それじゃ始めるとしよう」
内藤は室内にいる誰かにそう言うと、リモコンを手にし、オーディオのボリュームを下げた。そしてカメラの方を向いて話し始めた。
「このビデオが人の目に触れるのかどうか私には分からない。だがもし、これを見る人がいたのなら、これは帝都大学文学部内藤ゼミの卒業生である上條和仁君にあてた私からの最後の挨拶ですので、彼に見せていただきたいと願うばかりです。上條君、君には大変な重荷を背負わせてしまうことになってしまった。そのことを本当に申し訳なく思っている。君とても二十四歳の若者であることは世の若者となんら変わりがない。普通の若者のように夢を持ち、恋をし、人生を楽しむことだってできるし、私はここ数日、君にはそういう人生を歩んで欲しいと心から願っているんだ。あまりに虫のいい老人の言葉と思うかもしれない。だが今、こうして君に向かって話をしていても、私の心の中にあるのはそのことだけなのだ。確かに君は他の学生たちとは違っていた。学生時代、君は私に言ったね。『先生、肩書などどうでもいいじゃないですか。先生は僕たちを導いてくれました。たくさんの若者が先生の教えを胸に刻んで社会に出ていきます。それこそが先生が残された最も大きな功績ではないでしょうか。肩書なんてそんなくだらないものに固執するなんて、先生らしくないです』と。私は社会を分かっていない青二才が何を生意気にと思い、それ以来、君を遠ざけてしまった。しかし昨年、医者から癌だと告げられ、しかも余命一年と言われたときに、私は頭が真っ白になってしまった。自分の命が一年しか残っていないと知った時の気持ちをどう伝えればよいのだろう。確かに死への恐怖はあった。だがそれ以上に私は私の人生を振り返って愕然としたんだ。私の人生とは何だったんだ。私には人生で誇れるようなものは何一つないんじゃないかと……私は帝都大学で君たちにニーチェを教えた。自分自身もニーチェを気取り、世論に迎合するものたちを痛烈に批判した。だが自分が世論にどう評価されているかということにも絶えず気を使っていた。出世のために権力者にすりよったこともあった、よく思われようと阿諛追従を並べ立てたことさえある……そんなことしか、思いつかないんだよ。なんと、くだらない人生だったのかとほとほと嫌気がさしたよ」そう言うと、内藤は手元にあった白いカードを手に取った。
「『学者』、そう、まさに私は『学者』だったよ。私は何もなすことができないただの傍観者だった。君たちが陰で私を『学者』と嘲っているのは知っていた。だが私は青臭くニーチェに傾倒する君たちを逆に小馬鹿にしていた。私はニーチェを説いているくせに、ニーチェとニーチェに染まるものたちを軽蔑していたのだよ。だが、そんな自分でもいざ死を目の前にすると、自分の人生はニーチェとともにあったことを今更ながら強く思うようになった。ニーチェの思想、自分が人生の大半を捧げてきた思想をいくばくかも世に広め、自分が生きた証を残したいと思うようになった。そのときだよ、君らを思い出しのは。講義の際に火のように私に獅子吼する君たち、まっすぐに正論を唱え続ける君たち。私は無性に君らに会いたくなった。君らが社会に出ても、あの気高く、滾るような熱い思いを抱き続けているのか確かめたくなった――君らは変わっていなかった。それどころか君らの魂はますます燃え盛り、この世の中を変革するだけの力を蓄え大きく成長していたと知った。私はうれしくなった。私がこの世を生きた唯一の証は君らであったんだとようやく気づいたんだ。私は満足し、自分が遠からずこの世を去ること、私のような生き方ではなく君たちこそニーチェが説いた人間のあるべき姿を広く世に示す導き手となって欲しいということを彼に語った。ところが彼は私の言葉を聞くと顔を沈めて思い悩む様子だった。私は、どうしたのかと彼に尋ねた。彼はしばらく悩んでいたが私に打ち明けてくれた、彼の秘密と彼の計画を。私はそれを聞いたとき、不思議なことに彼を止めようとは思わなかった。軽蔑してくれて構わない。だが私は彼が為そうとしていることに共感を覚えたのだ。いや、はっきり言おう。私は彼の計画に魅せられ、その計画にぜひとも自分も参加させてほしいと懇願したのだ。今思えば、なんとあさましい人間だと思う。自分が近々死ぬ身であったとしても、必死で彼を説得するのが師として当然の務めであり人としての道であった。だが私は自分の人生に意味を見出すことばかりに目がくらんで、彼の計画に賛同したのだ――私は死ぬ間際まで、『学者』だったよ。このカードを抱いてこの世を去るのは、私にとって何より相応しい。上條君、私は君に謝らなければならない。私は君がどれほどの重荷を背負わなければならないかそんなことを気遣う余裕さえなく、自分のことだけしか考えていなかった――君になんと言って詫びればいいのか――本当に申し訳ない。ただ、一つだけ信じて欲しい。私は君を誇りに思っていた……だから、どうか君には幸せになって欲しい。幸せな人生を生きて欲しい。ただそれだけを願っているよ」
内藤はそう言うと、その場に立ち上がり深く首を垂れた。そして、頭を上げるとようやく安堵したように微笑みを浮かべ、ソファーに座りなおした。
「これで思い残すことはない。安心してあの世にいける――これは、いつかこんな日があるかと思ってある知人から手に入れたシアン化ナトリウムだ。これを使えば確実に死に至るはずだ」内藤はそう言って力なく微笑した。
「先生、すいません。先生の死をこんな形で利用することになってしまって――」急に、別な男の声が聞こえた。
「何を言ってるんだ。君がいてくれたからこそ、私はこの一か月死の恐怖を忘れ、この先に起こることの期待に胸膨らませて過ごすことができたんだ。さあ帰るがいい。君にはまだやることが残っているはずだ。こんな老人の最後に付き合う必要はない」そう言うと内藤はポケットから鍵を一つ取り出しテーブルの上に置いた。
「そんなに寂しそうな顔をしないでくれ。私はうれしくてしょうがないのだ。ようやく自分の人生を何かの役にたてることができるんだ。君と上條くんがいたからこそ、私の人生は価値があったと大声で言えるのだ。君たち二人を教えることができたことは私のとって最高の栄誉だったよ。本当にお世話になった。ありがとう」
内藤の言葉はここで終わったが、代わりに誰かが嗚咽するような声が聞こえてきた。内藤がカメラの近くによってきた。そして、誰かの背中を優しく擦っていた。
動画が終了し画面が暗くなった。部屋の中がざわついた。大きく息をはくもの、隣同士話し合うもの、茫然と画面を見つめるもの。そんな中、真正面に座っていた近藤が、「いったい、どうなってんだ。内藤は自殺だったってことか」とさっぱりわけが分からないという風に独り言ちた。
だが、それは幕間に過ぎなかった。スクリーンでは再び矢印のアイコンが回っていた。新たな動画がアップロードされているようだった。捜査員たちは再び画面の方を向いた。室内はまたしても沈黙に包まれた。こうして最後の幕があがった。