そこは書斎だった。壁いっぱいが本に埋め尽くされていた。百科事典や洋書が整然と並べられていたが、その中にはコンピュータ言語やプログラミングに関する本も多く並べられていた。書棚の前にはアームチェアが一つぽつんと置かれていた。しばらくその画面が続いていたが、唐突に男が画面の横から現れてアームチェアに腰をかけた。少し浅黒い顔をしたその男は、この会議室にいる誰一人として見まがうはずもなかった。その男は、奥多摩の山中で死体となって発見された宮澤拓己、その人だった。
「この動画を見ている人は、おそらく僕の計画を見抜いた警察の皆さんだと思います。この動画を見られたということは僕の計画が失敗したということで、それはそれで残念な思いもあるけれど、どこかでそう望んでいるような気もします」
そう言うと宮澤は少し悩んだような顔をしていたが、再び話し始めた。
「やっぱり、誰に向かって話しているのか分からないとなんだか話しづらいので、上條、お前を相手に話すことにしたいと思う。これを見た警察の方々にお願いします。どうか、後でこの動画を上條和仁に見せてあげてください」そう言うと宮澤は急に笑顔になった。
「さて上條、いよいよ来週だな。準備は全部整ったよ。ほらこれが3Dプリンタで作った拳銃だよ。しかし技術の進歩って凄いよな。こんなものが簡単に作れるようになったんだぜ。いったいこの先、技術はどれだけ進歩するんだろうな。昔、お前と議論したことがあったな。確か自我をもつ人工物を人間が作ることができるかって内容だったな。あの時お前は自我は人間にのみ備わる唯一無二の特性だから、自我を人工的につくることはできないと主張したよな。でも俺はますます、そういうものが将来必ず実現されると信じるようになってきたよ。そうなったら思想すらも人間以外のものが生み出すようになるのかもしれない。人間が作り出した文明はいつか人間を支配する日が来るんじゃないだろうか。時間があれば、ぜひこの問題をお前と議論してみたいよ」そう言うと宮澤が急に笑い出した。
「って、これから死ぬ人間がそんなこと言うのもおかしいな。この問題はお前に残しておくよ。いつか遠い将来お前と再会する日があったらお前の答えをぜひ聞かせてくれ。楽しみにしてるよ――まあ、そんな余談はさておいて、この拳銃はある大手の印刷会社の3Dプリンタを借りて作ったんだよ。まあ普通だったら、そんなこと簡単にできるわけないんだけど、セキュリティシステムを管理している人間であれば、メンテナンスという口実で設備も簡単に利用できるし、履歴も簡単に抹消できるんだ。セキュリティシステムの一番の脆弱性は、それを管理する人間のモラルだと、そんなことを散々言ってきた当の本人がこんなことやってちゃ、おしまいだよな。だけど、これはどうしても必要なものだったから勘弁してもらおう」宮澤はそう言うと3Dプリンタで作った拳銃をじっとみつめた。
「一応、二丁作っておいたよ。もし、失敗したら笑い草にもならないからな。それで、先週、あそこに行って試してみた。威力は申し分なかった。これなら本番でもうまくいくはずだ。試発したもう一丁の拳銃は青梅駅のコインロッカーにパソコンを置くついでに別のロッカーに入れといたよ。そっちの鍵は実家の俺の引き出しの中においてきた」
そう言うと、宮澤は少し押し黙った。
「この前、実家に帰省した時にさ、父さん、俺に結婚しろっていうんだよ。俺、そん時思わず笑っちゃってさ。何言ってんだって思ったんだけど、今思うと本気で俺に結婚して欲しかったんじゃないかって気がするんだ。昔は人に信頼される人になれ、人の嫌がることを率先してやれって散々言ってたくせに、えらくなんてならなくたっていい、仕事なんてほどほどにして早く結婚して孫の顔を見せてくれって、真顔で俺に言うんだよ……参ったよ、今更そんなこと言われてもさ……上條、あとで父さんに俺が謝っていたって伝えてくれないか、父さんが願ったような人間にもなれず、父さんのわずかな期待にも応えることもできなくて、本当にすまなかったって。父さんだけじゃない。隼人にも伝えておいてくれないか。あいつとの約束を果たせず、勝手に死んでいく情けない俺を許してくれって。社会の中でしっかりと戦い続けているあいつの方が本当のツァラトゥストラだって――今、このときになって、俺は本当に自分が小さく見える。俺の周りには俺を支えてくれた人、俺なんかを愛してくれた人がたくさんいた。俺はそういう人たちがいて自分を支えてくれていたことに全く気付いていなかった。もう少し世の中を広く見ることができていたら、違う人生を歩んで行けたのかもしれない。でも俺はそうできなかった。周りを引っ張っていくのは俺だって思っていた、そうあるべきだと教えられてきたし、そういう自分に誇りを持っていた。人間が生きることに意味を見いだせるそんな社会をつくる、全ての人間が希望を持てる世界を創造していく、それは俺の信念でもあり、自分に課した十字架であるはずだった……だがあの日、俺の中の全てが砕けたんだ」そう言う宮澤の顔は青ざめて、その目にはただならぬ恐怖が宿っていた。
「あれは四月初めの頃だった。俺はメトロに乗っていた。列車はいつものように混みだして、俺の両隣も埋まっていった。俺の両隣には脂汗を照りつかせた親父といやらしいかっこをした女たちが座っていたが、そいつらの体臭と香水の匂いがひどくて、俺は息苦しさを感じ始めた。そして何か体がざわめくような感覚を感じた。俺は緊張した、何か分からないが不安と恐怖で体が硬直した。心拍があがり、早鐘のように脈打ち始めた。冷や汗が全身から吹き出し体が震えた。俺はじっと座っていることに耐えられず、立ち上がって誰かに助けを求めようとした。ところがどいつもこいつも俯いてスマホをいじくって、俺のことなど気にもとめていないんだ。今度は急に頭痛がしてきた。まるで万力で頭を締め付けられるような感じでズキズキと痛んだ。俺はめまいがし、吊革にしがみついた。俺はいまここで死ぬんだと感じた。その時の俺の顔はおそらく死人のように真っ白だったと思う。俺は吊革になんとかぶら下がりながら朦朧として周りを見渡した――その時だった、俺は信じがたいものを見たんだ」
そう言う宮澤の目は大きく見開き、何か世のものならぬ異様なものが実際に宮澤の目の前にいるかのようであった。
「――そこにいたのは、巨大な芋虫やミミズどもだった――そいつらは、ぬめぬめとした体液を光らせて悪臭を放ちながら、ねちょねちょと絡みついていた。俺は唖然とした。息をすることもできなかった。そして急に吐き気がこみ上げてきた。幸運にも電車が止まったので、俺は無我夢中で列車を飛び出した。腹から込み上げるものを耐えながら、とにかくその場から逃げ出した。俺は駅の中を駆け抜け、駅前の喫茶店に逃げ込んだ。俺は目を閉じて何度も何度も深呼吸し、幻覚だ、気の迷いだと自分に言い聞かせた。しばらくすると鼓動も落ち着き、頭痛も和らいてきた。俺はようやく一息ついて、ゆっくりと目を開いた。そこには何人かの客と店員がいたが、そいつらは普通の人間だった。俺は心底ほっとした。やっぱりあれは一時的な幻覚だったんだ、体調が少し悪かっただけだったんだとそう思った。ふと静かな店内で唯一があがあとがなりたてているテレビに気づいた。耳障りなノイズに俺は耳を閉じたが、見るともなしにちらっとそれを見上げた。その瞬間、俺の体は再び硬直した。そこには醜悪なものが映っていた。脂汗を垂れ流しながら、大男が小さな芋虫を口に入れて、ぐちゃぐちゃと噛み砕いていたのだ。そいつは芋虫を噛み続けていたが、途中で耐えられなくなったと見えて、口を押えて画面から消えていった。そこが俺の限界だった――俺はそれ以来、電車に乗ることができなくなった。大皿に盛られた料理をみるだけで吐き気がした。あれは夢に違いない、そんなはずはないと何度も試してみたんだが、電車に乗るとやっぱり人間が芋虫に見えるんだ。飲み会や宴会で目の前に大きな料理皿が並べられただけで、料理が芋虫やミミズに見えてしまうんだ。俺は電車に乗らなくてもいいようにアパートを変えた。なるべく飲み会や人が大勢集まるところには近寄らないようにした。だが体調はどんどん悪化していった。しまいには雑踏を歩くだけで周りを歩く人間たちが芋虫に見えるようになっていった。人間たちが気味の悪い化け物になって俺の周りを這いずり回っている。俺は毎日そそり立つような恐怖と嫌悪感に悩まされた。だが、俺にはそれよりもっと恐ろしいことがあったんだ。それは俺がそんな状態になってしまったことを会社や大学の仲間に知られることだった。今までリーダー面して、仕事頑張ろうだの、社会を変えようだのと言っていた俺が、ただの精神異常者だとみんなに知られることを心底から恐れた。自分の症状がパニック障害や統合失調症の一種だということはネットを調べてすぐわかった。だがその症状を完治させるには服薬や通院、最悪の場合、入院治療が必要だということ、それに薬の副作用で自分の身体に変調をきたすこともよくあるということを知った。そしてこの病気の主な原因が過度なストレスやプレッシャーから来るものであることを知った時、俺は自分ががらがらと壊れていくような錯覚に陥った。今まで自分がやってきたこと、それはキリストが自ら十字架を背負ったように自分の意志で自分に課してきたものだと信じていた。誰かに無理やり背負わされた重荷だとは思ってもいなかった。だが現実は皮肉だった。実際のところ、俺はそれを重荷と感じていたんだ。だから、その重荷はいつしか俺のストレスとなってたまっていき、ついに、そんな現象が出るようになったんだと分かったんだ。俺は単にツァラトゥストラの仮面をかぶっただけの、ただの弱者に過ぎなかったんだ」そう言うと宮澤は押し黙った。そして再びつぶやくように語り始めた。