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【哲学ミステリー小説】『ツァラトゥストラはかく語りき』(六十四)

「でも会社は、俺がそんな情けない人間だってのに、どんどん押しつけてくるんだよ――君に任せたよ――これ、お願いします――先輩、聞いてくださいって――俺は眩暈がし、吐き気がするような時でも、それを顔に出さないように必死に耐えて頑張った。人と一緒にいるだけでも辛くなり、残業して一人で仕事をすることが多くなった。だがもう限界だった。俺は疲れきっていた。俺は自殺しようと思った。でもその時ふと思った。自殺したんじゃ、結局俺はただの弱者だったとみんなは思うだろう。だから俺は誰かに殺された風を装って死ぬことを考えた。そしてどうせ死ぬなら、自分の死に何らかの意味を生み出したかった。俺はツァラトゥストラを装うだけのまがい物に過ぎないと悟ったが、ツァラトゥストラの思想だけは捨てきれなかった。だから俺はこの腐敗した社会をぶち壊し、俺たちが目指した社会の創造のために死のうと決意した。そして計画を立てたのだ。だが俺の計画には、どうしてももう一人の人間が必要だった。それは誰でもできる役ではない。ツァラトゥストラの示す道に命を懸けられる男でなければならない。そう思ったとき、俺の頭の中に浮かんだのは上條、お前ただ一人だった。俺は六月のある日、お前と会った。久しぶりに見るお前はお母さんを失った痛手からは完全に立ち直り、若々しいエネルギーとこの世の変革を願う気概にあふれていた。俺はそんなお前の姿を見て確信した。お前が俺の計画に協力してくれるならこの社会を本当に変えられると。俺は自分の身に起こったことを全てお前に話した。そして、俺がこれからやろうとしている計画を――お前は猛反対した。お前は俺の体を案じ、病院に行けば必ず治ると何度も言ってくれた。俺はお前の言葉を聞いて本当にうれしく思った。この世の中にたった一人、お前だけは俺のことを理解し、俺の身を案じてくれる。そう思っただけで涙が出るほどうれしかった。でも自分の体の状況は自分が一番よく知っていた。その頃の俺はもはや朝起きるのすら苦痛になっていた。俺は、もしこの計画を実行できなかったら、明日にも惨めに死んでいるかもしれない、俺を救うと思って協力してくれとお前に懇願した。今思うと、俺はなんと卑劣なやつだったと思う。自分の見栄のために、親友をとんでもないことに巻き込んで、後は任せたと勝手に死んでいくんだから。でもお前は俺の意志が変わらないことを悟ると、諦めたように俺の計画に協力すると言ってくれた。俺はお前が協力してくれると聞いて驚喜した。久しぶりに生きていることの喜びを感じた。それ以来、俺は準備に没頭した。不思議なことに、その間、俺を襲ったあの忌まわしい現象は一度も現れなかった。俺は活気にあふれ、仕事もバリバリとこなした。あのチャットプログラムなどたった一晩で作り上げた。準備は整っていったが思いがけない要素が加わった。なんと、内藤先生がこの計画に加わることになった。さっき先生の家に言って、最後の挨拶に行ってきたよ。先生はお前のことを本当に心配していた。そして、お前が幸せになることを心の底から望んでいたよ。先生は今頃、好きなワインを片手に最後のひと時を楽しんでいることだろう――上條、あの人は『学者』なんかじゃなかったよ。ツァラトゥストラの道を俺たちに示してくれた素晴らしい教師だったよ」そう語る宮澤の目は少し赤かった。

「さて、今度は俺の番だな。しかし、ニーチェが亡くなった日にニーチェと同じように精神を病んで死出の旅路に出かけようというんだから、俺も相当、ニーチェにかぶれているよな。でもさ、この計画を進めている間、俺は本当にニーチェの魂が自分の中に降りてきたんじゃないかという錯覚に何度も襲われたよ。マスコミに送る声明文を書いたときなんて、自分が書いたにも関わらず、書いた記憶が全くないんだよ。なんていうか、気づいたときには出来上がっていたっていうか――本当にニーチェが俺の身体を借りて自分の思想を広めようとしているのかもしれないな。それとも俺の方がもう、あの世に片足つっこんでいるのかな……何言ってんだろうな俺は。死後の世界など信じたこともなかったのに、自分が死ぬとなるとこのざまだよ」宮澤は自嘲気味につぶやくとポケットから一枚のカードを手に取った。

「俺はこの『死の説教者』を選んだよ――自らを殺すべきだ! 自らをこの世から盗み去るべきだ――まったく、俺に相応しいじゃないか。でもさ、そんなこと言いながら、死を迎えることに恐怖も感じてるんだよ。何をいまさらとお前は言うかもしれないな。こんな大それたことに巻き込んだくせにな……でも、やっぱり死は恐ろしい。死の苦しさもやはり永劫に回帰し、人間を永遠に苦しめるんだろうな……だけど、俺はこの戦いにだけはどうして負けたくない。死の恐怖に怯えて死にたくはない。死の恐怖に打ち勝って旅立ちたいんだ。俺の戦いは、お前がこれから挑む戦いに比べれば、あまりにも些細なことだけど、俺もやっぱり戦って死にたいんだ」そう語る宮澤ではあったが、既にその顔には死の恐怖を乗り越えたようなすがすがしい表情が浮かんでいた。

「――それにしても、お前が警察と思想を戦わせるなんて、すごいことになるだろうな。お前が一体どんな風に彼らを論破するか、とても楽しみだよ。学生の頃、よく二人で朝まで語り合ったな。あの時が一番幸せだったのかもしれない。生まれて初めて、本気で問い掛けることができる人間をみつけることができた。初めて、本気で勝負しないと勝てない男に巡り合えた。お前なら、この社会の矛盾を正し、人間が進むべき道を示すことができる。お前は超人たりえる男だ、世を貫く雷鳴であり紫電だ。俺はお前と会うことができて本当に幸せだった。お前は俺とともに同じ道を歩いてくれた。本当なら爺さんになるまでお前と一緒に歩きたかった。お前と一緒に子供たちが幸せに暮らせる世界をつくりたかった……上條、自分一人で勝手に行ってしまう俺を許してくれ。そして、これは『死の説教者』が言うことじゃないが、俺の分まで幸せになってずっと生き続けてくれ」宮澤はそう言うとにっこりと笑った。その顔には溢れんばかりの愛情がこもっていた。

「これを見ている警察の皆さん。今回の事件のあらましは今言ったとおりですが、今一度、僕の計画をすじに沿ってお話します。もしかすると、僕が言ったことと現実で起こることが違うことがあるかもしれませんが、あくまでも現在の予定としてお話しします。僕は二十四日の夜、隼人のアパートを出てタクシーに乗り、現場から三キロほど離れた集落で降ります。そこから青梅街道を歩いて現場にいきます。途中で携帯電話は壊してどこか適当なところに埋めるつもりです。現場に着いたらこの銃で自殺します。他殺を装うために手袋をして、さらにタオルで拳銃をぐるぐる巻きにして手に硝煙反応が残らないようにします。銃やタオルなどの用具一式は銃の威力を確かめるために事前に現場に行って試したときに袋に入れて近くに埋めておきました。そして、翌二十五日の夜、上條が現場に来て僕の死亡写真を撮った後、口にカードを挟み銃とタオルなどを回収します。内藤先生は毒物を仰いで自殺します。僕はさきほどまで先生のマンションにいて、先生が死の間際まで誰かといたように装いました。マンションから出てくるときは先生に作ってもらった合鍵で出ました。そして手紙を埼玉県警あてに投函しました。現場を密室にしたのは誰かに現場を荒らされるなどの偶発的な事象を極力排除したかったからです。それに、先生の死因の謎をあのカード一点に集中させたかったからでもあります。そして、捜査がある程度進んだ頃を見計らって、僕が作成したツァラトゥストラの声明文と死亡現場の写真を上條がテレビ局に送りつけます。テレビを巻き込むのは事件を大きくして、世論の関心を引き付けるためです。『死の説教者』や『学者』というカードを添えたのも事件の異常性を高め、ツァラトゥストラに関心を向けさせるためです。上條を佐々木のアパートに呼び出したのは、誰がどう考えても疑いが集中するであろう上條に完璧なアリバイをつくるためです。上條は僕が自殺する時間には完璧なアリバイがあり、僕の死には何の関係もない。つまり、あなたたちは僕の死を上條に結び付けることは絶対にできない。そして、それは隼人にも言えることです。僕は彼らを守るために完璧なアリバイをつくりました。捜査は難航するでしょう。なぜなら犯人など誰もいないからです。しかし、僕を殺したと仄めかすツァラトゥストラという人間は現にいて世間を騒がしている。結果警察は誰も捕まえられず、ツァラトゥストラのカリスマ性は高まり、その思想は社会に大きなインパクトを与えるだろう。そう考えたんです。だから上條がしたことは八月二十五日の晩に僕の自殺現場にいって写真を撮ったこと、僕の口にカードを差し込んだこと。死体現場を示した手紙を警視庁に送ったこと。僕の写真を同封した声明文入りの封筒をマスコミに送ったこと。適当な時期にあのパソコンを使って警察を相手に論戦をしたこと。ただそれだけです。警察の皆さん、一切の罪は私にあるんです。彼を巻き込んだのは僕なんです。こんなことはやめようと何度も僕を説得し続けた彼を無理やり引きずり込んだのはこの僕なんです――彼は母を亡くしたときに生きる希望を失い自殺したいと僕に言いました。僕は彼を説得して、自殺を思いとどまらせたことがあります。僕はそのことを恩に着せて、彼が断われないように迫ったんです。彼の優しさにつけこんで、彼を犯罪に巻き込んだんです。これがこの事件の全てです。社会の重圧に耐えきれず死に逃避する一人の弱者が、死ぬ間際にせめて自分の生きた証をこの世に残したという思いがツァラトゥストラを生んだんです――そう僕がツァラトゥストラだったんです」

 

 誰もが絶句していた。会議室にいる誰一人として、声をあげるものはいなかった。浩平も口を噛んで画面の中の宮澤をじっと見つめていた。言葉に尽くせぬ思いが心の中を駆け巡っていた。誰が悪いのか、何が彼をここまで追い詰めたのか、この計画は死に優るほどの価値が本当にあったのか、いったい、生きるとはなんだ、真理とはなんなんだ。

 思いに囚われていた浩平の握りこぶしの上に誰かが手を重ねた。それは隣に座った桜の手だった。浩平は桜の方を振り向いた。桜はもう終わったんだよとでも言うように優しく微笑んでいた。

 動画が終了し改めてフォルダを見ると、蛇のアイコンをしたファイルの他に二つのファイルが保存されていた。一つは、声明文と名付けられた文書ファイルでテレビ局に送られたものと全く同じ内容であった。もう一つは、ツァラトゥストラの箴言と題されたファイルで、そこには現代の社会や制度、現代人に対する強烈な批判がエッセー風に書かれており、宮澤の思想を知るための貴重な資料となった。

 後日、宮澤の実家の机の中を調べたところ、内藤のマンションの合鍵と青梅駅のコインロッカーの鍵が発見された。コインロッカーには上條のアパートから押収されたものと全く同じタイプの銃が一丁入っていた。鑑識の結果、その銃からも弾丸が発射された痕跡が確認された。

 数日後、上條に動画が見せられた。彼は画面を食い入るように見つめていたが動画が終わると、肩を震わせ声を押し殺して長いこと泣き続けていた。

 

泣きじゃくる青年

 

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