上條が自供し事件が完全に解明されてから数日経った十一月のある日、浩平は一人で芽衣のもとを訪れていた。
「こうへいおじさん、しばらく来ないから、芽衣のこと忘れちゃったのかと思った」芽衣はそう言うとふくれっ面をした。
「ごめん、ごめん、ちょっと仕事が忙しくてな。だけど、もう終わったから、今度はたくさん会いに来るよ」芽衣はそれを聞いても今一つ元気がなかった。
「どうした」浩平が尋ねた。
「最近、かずちゃんもさっぱりきてくれないんだ」芽衣が悲しそうに言った。
「――実はね、和仁くん、しばらく仕事があって遠くにいかなくちゃいけなくなったんだ。だから、和仁くんから芽衣ちゃんに手紙を預かってきたよ。きみに渡してくれって」
そう言うと浩平は芽衣に手紙を渡した。芽衣はびっくりしたように浩平を見つめたが、恐る恐る手紙を手に取って中を開いた。
『芽衣ちゃん、とつぜんだけど、どうしてもやらなくちゃいけないしごとができたから、少しの間、会うことができなくなっちゃった。会って伝えたかったんだけど、それもできなくて、本当にごめんなさい。だけど安心して。僕はかならず芽衣ちゃんのところに帰ってくるから。芽衣ちゃん、世の中には楽しいことがたくさんあるんだよ。芽衣ちゃんはひとりぼっちじゃないんだよ。じつは、みどりちゃんと進くんは、芽衣ちゃんと遊びたがっているんだよ。いつも芽衣ちゃんが本を読んでいるから声をかけられないって僕に言ってるんだよ。芽衣ちゃん、今度、みどりちゃんと進くんに勇気をだして遊ぼうっていってごらん。そしたら、きっとお友達になれるとおもうよ。それに、芽衣ちゃんにはもう一人友達がいるよ。この手紙をもっていってくれるこうへいさんも、きっと、芽衣ちゃんの大事な友達になってくれるはずだよ。だから、みんなといっしょに遊びながら、ぼくが帰ってくるのを待っていてね。きみの友達の和仁より』
芽衣はその手紙を読むとしばらく黙っていた。そして急に浩平の方を見上げると、「ほんとかな? ほんとにかずちゃん、わたしのところに帰ってくるかな」と心配そうに聞いた。
「ああ、きっと帰ってくるよ」浩平は力強く頷いた。
「ねえ、みどりちゃんと進くんがわたしと遊びたいってほんとかな?」芽衣は不安そうにつぶやいた。
「ああ、きっとそうだと思うよ」浩平は優しく頷いた。
「ねえ、こうへいおじさん、わたしの友達になってくれる?」芽衣は浩平をみあげた。
「ああ、こんどはおじさんが毎週かならず遊びにくるから、いい子にして待ってるんだぞ」浩平は笑いながらそう言うと、一つ付け加えた。「だけど、おじさんじゃなくて、おにいさんだ」
芽衣はうれしそうに笑うと、「おじさん、だいすき」といって浩平に抱きついた。
陽が暮れて空がオレンジ色に染まっていた。吹く風はひんやりとして、夏がとうの昔に過ぎたことを物語っていた。
「――いつの間にか、あの暑い夏も終わってたんですね」桜がしみじみと言った
「ああ」浩平も頷くように言った。
「いよいよ、今日から裁判がはじまりますね」
「そうだな」
「結局、宮澤が話したとおりだと上條も認めたようですけど、警察との討論だけは自分のアイデアだと言い張ってるみたいですね」
「――俺もそうだと思うよ」浩平がつぶやいた。「――あんなこと人に頼まれてできるようなものじゃない。自分に確固たる信念がなければ、到底、あんなことは言えないよ」
「確かにそうですね」
「それにあの討論さえなければ、上條が捕まる可能性はほとんどゼロだった。俺には、宮澤が上條を危険に晒すような計画を作るとは思えない」
「それじゃ、やっぱりあの討論は上條が……」桜がつぶやいた。
「ああ、上條は、宮澤の最後の望みを完璧に果たさせてやりたいと思ったんだろう。だけどマスコミに送る声明文だけでは十分とは言えない。計画をより完璧なものにするためには、ツァラトゥストラを実態のあるものとして民衆に近づけなければならない。だったら、自分が舞台に立ってツァラトゥストラを演じればいい。そう思ったんだろう」
「ツァラトゥストラは二人いたんですね」桜がつぶやいた。
「親友であり、同士であり、ライバルでもあった二人の天才が、一つの目的のために協力して、ツァラトゥストラを演じる。おそらくそれを聞いた宮澤は歓喜したろう。そのアイデアは宮澤が想定した以上のインパクトを確実に社会に与える、社会の変革が本当に実現するかもしれない。その興奮が宮澤の症状を改善させたんだと思う。だが、その魅力的な計画は一方で宮澤と上條を後戻りできなくさせてしまったんだ。迫りくる死への恐怖、とんでもないことをしてしまったという後悔の念。二人は計画に熱中しながらも、自分たちの先に待っている過酷な運命にも翻弄されていたんだ。そして、宮澤にはもう一つ新しい不安が生まれていた――」
「不安?」
「宮澤は上條の決意に不安を覚えたんだ。動画でも言ってたように、上條が俺たちとの討論に勝つことは確信していたろう。だが一方で、上條が自分のために全てを捨て去る気になっているんじゃないかという漠然とした思いを感じ始めたんだと思う。だからこそ、万が一のために、あのビデオを残して、警察に送ったあのパソコンにそれを密かに忍び込ませたんだ。そしてそのファイルを開くためのパスワードを刻んだ指輪は上條に贈った。おそらく宮澤はこの指輪は俺の形見だから大事にしてくれと上條に言ったんだと思う。指輪があいつの意志に反してその手を離れる時、それは、あいつが敗北したときだ。その時、警察は必ずあの指輪のパスワードに気づくだろう。そうすれば、この事件の真相を警察に知らせることができる。上條を守ることができる。そう考えたんだろう」
「……二人は、本当の友達だったんですね」桜がポツンと言った。
――本当の友達っていうのは、どういう関係なんでしょう? 本当の友達っていうのはお互いを心の底から尊敬しあえる関係だと思うんです。同じ目標に向かってともに進むことのできる人たち、そして、時には最高のライバルとして戦い合えるような間柄だと思うんです――
上條の言葉が浩平の頭に浮かんだ。確かにこれは悲劇だったのかもしれない。だが、あいつらは本当の友達を人生の中で見つけ、自分たちの信念のために命を懸けて戦った。それはどんなことよりも価値があるにちがいない。あいつらは確かにツァラトゥストラの示した道を歩む真の戦士たちだった。
太陽は西の空に沈み、空はすっかり暗くなっていた。街は憩いの時を迎え、昼の装いとは別の顔を見せ始めていた。家路に急ぐもの、仲間同士で居酒屋の暖簾をくぐるもの、仕事を終えた人々がそれぞれの思いを胸に街を歩いていた。二人はそんな人々をしばらく黙って眺めていたが、再び桜が浩平に尋ねた。
「彼は罪に問われると思います?」
「少なくても死体遺棄の罪があるし、民衆を扇動して、これだけの騒ぎを起こしたんだから、無罪と言うわけにはいかないだろうな」
「でも、情状酌量の余地もありますよね」
「ああ。ただ有罪か無罪かなんて、あいつは気にもしないだろうさ。あいつにとって、裁判は次の戦いの舞台に過ぎないさ。あいつは裁判を通じて、この社会の不正や腐敗を徹底的に断じるだろうよ」
桜はそう言う浩平を見つめながら、「……宮澤が残したツァラトゥストラの箴言ってファイル読みました?」と小さな声で聞いた。
「――ああ」浩平も小さく答えた。
「あの中に文明論って題された箇所がありましたけど、そこに書かれていたことって以前先輩が私に言ってたことと全く同じでしたね」
浩平はしばらく黙っていたが、「――もしかしたら、俺がツァラトゥストラになっていたかもしれないな」と薄く笑った。
「たまたま、環境が違っただけで、もし俺が同じ立場だったら、同じことをしたのかもしれない」
「そんなこと、絶対ないですよ。先輩はもっと強いですもん!」桜が大きな声で言うと、浩平が笑った。
「とにかく、上條には裁判で大いに暴れて欲しいね」
「先輩、なんかうれしそうですね」
「だってさ、それくらいしてもらわないと俺たちが人生をかけた甲斐がないじゃないか」
「でも社会って変わるんですかね。テレビはもう、ツァラトゥストラ事件のことなんてすっかり忘れたように総選挙のニュースで盛り上がってますけど――ニーチェの言ってる永劫回帰って、こういうことなのかなって思うと、なんだか悲しくなります」
「いや、それでいんだよ。忘れるっていうのは大事なことだよ。そうじゃなかったら、どうしてこんな世界で希望をもって生きていけるんだよ。それに俺はあの二人が撒いた種が全部枯れたとは思っていない。少なくても、この世の中で二人だけは、あいつらのおかげで自分の人生を少しだけ意義あるものすることができるようになったはずだ」
「二人って誰ですか?」桜が聞いた。
浩平は桜を見返して、少し照れたように言った。
「俺とお前さ」
桜は一瞬、息が止まったが、次第に体の中から暖かい気持ちが溢れてくるのを感じた。
「先輩、何か忘れてませんか?」桜が元気よく言った。
「なんだよ」
「図書館で約束したお寿司、まだおごってもらってませんけど」桜がにっと笑った。
「まだ、覚えてたのかよ」
「あたりまえじゃないですか! 鮪に平目に赤貝、ウニもいい時期ですね」
「ちょっと待て待て、俺、謹慎中で給料出てないんだぞ」
「そんな細かいこと言わずに行きますよ!」そう言うと、桜は浩平の腕を取って元気に歩き出した。
「しょうがねえなあ。じゃあ、今日はとことんいくか!」浩平の声が東京の夜空に明るく響いた。
ー 完 ー